第17話|重なり
深夜、研究室に残っているのは俺一人だった。パソコンの画面には、同じ段落を何度も読み返した跡が残っている。
俺が研究対象に選んだのは、古代オリエント世界に実在した、とある小国家の史料群だった。前世の王国とは、時代も地理も一致しない。それでも、そこには妙に見覚えのある構造があった。神殿を後ろ盾にした神権政治の勢力と、実務官僚を中心とした世俗権力の勢力が、王位の正統性をめぐって対立していた記録――前世で、エイエル陛下が戦い抜いたのと、驚くほど似た構図だ。
誰にも話すつもりのない、本当の理由がそこにはあった。あの権力闘争を、史料という他人の記録の形を借りて、もう一度、外側から辿り直しておきたかった。
そして今、論文の核となる部分で行き詰まっていた。神殿勢力と実務官僚勢力、どちらの正統性主張がより民衆に浸透したか、その決め手は何だったのか。史料を並べれば並べるほど、堂々巡りになっていく。神の権威か、実務の実績か。どちらの理屈も、それらしく組み立てられてしまう。
「まだ、いたんですか」
顔を上げると、麻朱が戸口に立っていた。忘れ物を取りに戻ってきたらしい。
「ああ。ちょっと、行き詰まってて」
「珍しいですね、要さんがそんな顔するの」
麻朱は、興味本位で覗き込んでくる。俺は特に隠す理由もなく、画面を見せた。
「神殿側と実務官僚側、どっちの主張がなんで最終的に支持されたのか、っていうのを詰めてるんだけど。史料上、どっちの理屈も一長一短で」
麻朱は、しばらく画面を眺めていたが、内容までは追えていないのか、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。
「なんか、難しそうですね」
「まあな」
「私、こういう理念とか正統性とか、そういうのがそもそも頭に入ってこないタイプなんですよね」
麻朱は、苦笑い混じりにそう言うと、思い出したように続けた。
「この前バイト先近くで新しいカフェ探した時も、公式サイトの"こだわりの一杯"みたいな謳い文句、全然頭に残らなくて。結局、実際行った人の口コミばっかり熱心に読んじゃいました。どんなに立派なこと書いてあっても、実際どうだったかの方が気になっちゃって」
「……って、なんか脱線しましたね。すみません」
麻朱は、特に深い意図もなく、自分の傾向をぼやいたついでの世間話のつもりで、そう締めくくった。
だが、その瞬間、頭の中で何かが噛み合う音がした。
――そうだ。正統性の議論そのものではなく、それが「民の暮らしにどう反映されたか」を軸に史料を読み直せば良い。
麻朱の言葉を反芻しながら、ふと思う。
そういえば、あの方も、いつもこうだった。理屈の外側から、ふいに核心を撃ち抜いてしまう――。
◇
神殿勢力は、王弟の血統と、神殿の後ろ盾による支配の正統性を説いた。厳かな儀式、聖典の引用、神官たちの権威づけ。理屈としては、堂々たるものだった。
対して、エイエル王子派の主張は、地味だった。血筋の正統性を声高に主張するのではなく、実務官僚と軍を味方につけ、具体的な施策で民の暮らしを良くすることで、支持を積み上げていく道を選んだ。
当初、両派の力は、ほぼ拮抗していた。神殿の権威を恐れる者、実務官僚の手腕を評価する者。どちらの主張にも、それぞれの理があり、民の支持は割れたまま、膠着していた。
その均衡を崩す転機を作ったのが、マアカ様だった。
王子妃になったばかりのマアカ様は、宮廷の作法にも政治の駆け引きにも疎かった。だが、民の暮らしの実感だけは、誰よりも鋭く掴んでいらした。
「税の取り立てを、収穫の後に変えるだけで、随分違うと思います。今のままだと、種を蒔く前に取り立てが来て、次の年の分まで削られてしまいますから」
その場にいた誰もが、一瞬言葉を失った。神殿の権威をめぐる高尚な議論の最中に、あまりに具体的で、あまりに生活に根差した提案だったからだ。
エイエル殿下は、それを一笑に付すどころか、即座に実務官僚たちに検討を命じた。結果、その施策は民に届き、目に見える形で暮らしを変えた。神殿側がどれほど正統性を説いても届かなかった民の心が、エイエル王子派へと傾いていった転機は、間違いなくあの一言だった。
俺は、その場に控えながら、密かに舌を巻いていた。政治の駆け引きなど知らないはずの人が、誰よりも本質を突いていた。
◇
「……要さん? 大丈夫ですか?」
麻朱の声で、我に返る。
「あ、いや――今の、いいかもしれない」
「え、私、なんか言いました?」
「正統性の議論そのものより、それが民の生活にどう反映されたかを軸に、史料を読み直してみる。多分、そっちの方が筋が通る」
麻朱は、きょとんとした顔をしていたが、やがて、嬉しそうに笑った。
「よく分かんないですけど、役に立てたならよかったです」
「……助かった」
素直にそう言うと、麻朱は少し照れたように、でも誇らしげに頬を緩めた。
麻朱には、政治学の知識も、史料を読む訓練もない。それでも、彼女の何気ない一言が、俺が何日も抜け出せずにいた迷路の出口を、あっさりと示してみせた。
胸の奥に、温かいものが広がる。それと同時に、その温かさに、ほんの少し、影が差すのが分かった。
理屈より先に、目の前の現実を見る。誰に教わったのでもない、その人自身の地力で、物事の本質を掴んでしまう――それは、紛れもなく麻朱の資質のはずだった。それなのに今、俺の記憶は勝手に、同じ資質を持っていた、もう一人の人の姿を重ねている。
麻朱として積み上げてきたはずの日々の、その一番奥にある根っこの部分が、結局はあの人と同じ場所から生えているのだと、思い知らされたような気がした。
別人として愛したいと願うほどに、こういう瞬間だけは、逃れようがない。喜びと戸惑いが、綺麗に分けられないまま、胸の中で絡み合っていた。




