第18話|盾
待ち合わせ場所に着いた、はずだった。要さんの姿が見当たらない。もしかして、また道を間違えたのかもしれない――そう思ってスマホを開こうとしたところで、横から声をかけられた。
「ねえねえ、一人? 暇なら、俺らと遊ばない?」
「あの、すみません、待ち合わせしてるので」
「そんな固いこと言わずにさ」
もう何度目か分からない。やんわり断っても、笑いながらじりじりと距離を詰めてくる。周りに助けを求めようにも、人通りは少ない。愛想笑いを浮かべる余裕は、とうになくなっていた。
一人の男が、馴れ馴れしく肩に手を伸ばしてきた。ぞっとして一歩下がろうとした、その時だった。
「悪い」
低い声が割り込んで、目の前に要さんの背中が現れた。伸ばされかけた手を、視線だけで制する。
「――俺の連れなんで。触らないでもらっていい?」
いつもの淡々とした喋り方とは、まるで違う声だった。地を這うように低く、有無を言わせない迫力がある。男たちは一瞬怯んだ顔をした後、「あ、いたんだ、彼氏」とつまらなそうに離れていった。
その背中が完全に見えなくなってから、要さんはようやく詰めていた息を吐いた。
「……探した。大丈夫か」
「……はい。ありがとうございます」
指先が、まだ小さく震えているのが自分でも分かった。それを見透かしたように、要さんが黙って手を握ってくれる。
「……ありがとうございました」
もう一度、ちゃんとお礼を言う。要さんは「いや」とだけ言って、目を逸らした。
その横顔に、頬がじわっと熱くなる。ただ助けてもらっただけのことなのに、心臓がうるさいくらい早鐘を打っていた。いつもは淡々としてる人が、あんなふうに割り込んできて、はっきり「俺の」なんて言うから――そのギャップに、うまく息ができない。
けれど、要さんの目は、もうこちらを見ていなかった。まだ何か、遠くを見るような表情をしている。
◇ ◆ ◇
麻朱の声は、思ったより落ち着いていたが、指先はまだ小さく震えていた。俺は、その手を、無意識に握っていた。
その瞬間、頭の奥で、何かが弾けるように蘇った。
あれは、マアカ様の政策介入がエイエル王子派の勝利を決定づけてから、それほど時を経ていない頃だった。
戦況を覆されたことへの逆恨みから、王弟派の残党が、報復としてマアカ様の暗殺、あるいは拉致を企てた。事前に情報を掴んでいた俺は、幾重にも警護の網を張り、万全のはずだった。
それでも、完全ではなかった。
一瞬の隙をついて、賊の一人がマアカ様に近づいた。俺は反射的に体を割り込ませ、その手を叩き落とした。刃が掠め、マアカ様の肩口に、浅くはない傷が残った。もっとも、普段は衣に隠れて誰の目にも触れない場所だった。
賊は、すぐに取り押さえられた。危険は去った。それでも、俺の中では、何一つ終わっていなかった。
「申し訳ございません」
床に膝をつき、深く頭を下げた。防ぎきれなかった。それだけが、頭の中を占めていた。
「セタルのせいじゃないわ。むしろ、助けてもらったのに」
マアカ様は、涙を浮かべながら、そう仰った。その声には、心からの感謝が滲んでいた。
だが俺は、顔を上げることさえできなかった。
「これが、私の務めです」
そう答えるだけで、精一杯だった。誰かを守るという行為に、これほど重い意味を持たせたことは、それまで一度もなかった。それは、恋愛感情でも、私情でもなかった。ただ、託された役目を果たせなかったことへの、純粋な悔恨だった。
◇
「……要さん?」
気づけば、麻朱が心配そうにこちらを覗き込んでいた。まだ、彼女の手を握ったままだったことに、今更気づく。
「あ、悪い」
離そうとした手を、麻朱の方が、逆に握り返してきた。
「……もう少し、このままでもいいですよ」
その一言に、俺は、握る手に少し力を込めた。
さっきの自分の行動を、俺は反芻していた。あの時、頭の中にあったのは、職務でも忠誠でもなかった。ただ、目の前の彼女に誰かが触れることが、耐えられなかった。それだけだった。
前世の自分もまた、同じように咄嗟に盾になった。だが、あの時、体を突き動かしていたのは、忠誠心であり、王妃への使命感だった。
――今は、ただの独占欲だ。
その自覚に、これまで感じたことのない種類の熱が、胸の奥に広がっていくのが分かった。
同時に、ふいに思い至る。
あの襲撃の直後、誰よりも早く駆けつけたのはエイエル陛下だった。血相を変え、マアカ様の無事をその目で確かめるなり、人目もはばからず強く抱きしめられた。日頃は感情を律することに長けた陛下が、あの時ばかりは、指先を震わせていらした。
セタルとして、俺はその姿を間近で見ていた。唯一無二の妃を失いかけた恐怖――そう言葉にして、頭では理解しているつもりだった。あれ以来、陛下の過保護がひとつ増えたことも、忠臣として当然のように受け止めていた。
だが、それは所詮、他人の感情を、外側から眺めていただけに過ぎなかったのだと、今になって思い知る。
誰かをこんなにも失いたくないと思ったのは、前世でも今世でも、俺自身は初めてだった。麻朱を、心から愛おしいと思う気持ちを知った今だからこそ、ようやく分かる。
あの時、陛下の指先が、なぜあんなにも震えていたのか。
大切な人を、失うかもしれない。その可能性を想像するだけで、これほど怖くなるのだと、俺は今日、初めて知った。




