↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/30

第19話|背徳①

その後のデートは、正直に言えば、あまり記憶に残っていない。どこを歩いたのかも、何を話したのかも、後から思い出そうとしても曖昧にしかたどれなかった。


俺だけではなかったと思う。麻朱(まあか)もまた、どこか上の空だった。会話の合間に妙な間が空いたり、こちらが話しかけると一拍遅れて返事をしたり――そんな瞬間が、何度もあった。


待ち合わせ場所で絡まれた、あの一件のせいなのか。それとも、まったく別の何かのせいなのか。自分でもよく分からなかった。ただ、二人の間に流れる空気が、いつもと違うことだけは確かだった。


付き合い始めてから、それなりの時間が経つ。それでも俺たちは、手を繋ぐことと、肩に寄りかかることと、時折抱きしめることの、その先へは進んでいなかった。互いにとって、これが初めての恋人だった。先輩後輩という距離感が、いつまでも体に染みついて抜けなかったし、何より――その先に進む勇気が、俺にはまだなかった。


けれど今日は、何かが違った。


言葉にできるようなものではない。ただ、繋いだ手の指先が、いつもより長く絡まっていたり、視線が合うたびに、逸らすまでの間が、少しだけ長くなっていたり。寄り添う距離が、気づけばいつもより近かったり。麻朱の声が、いつもよりほんの少し、甘かったり。


そういう、些細なことの積み重ねだった。それでも俺には、今日という日が、いつもの延長線上にはないのだと、はっきりと分かった。


駅を降りた瞬間、空が唸った。


「――え」


振り仰いだ空は、さっきまでの青さが嘘のように、鉛色に塗り替わっていた。麻朱が言い終えるより早く、大粒の雨が叩きつけてきた。ゲリラ豪雨。傘なんて、二人とも持っていなかった。


「走るぞ」


麻朱の手を掴んで、駆け出す。住宅街の路地を抜け、俺の部屋のあるアパートまで、全力で走った。それでも、着く頃には二人とも、なりふり構わずずぶ濡れになっていた。


玄関の扉を、勢いのまま閉める。廊下に、雨粒の跳ねる音だけが響いた。


駅からここまで、二人とも、ほとんど口をきかなかった。ただ黙って手を繋いで、走り続けていた。息は上がったまま、まだ整わない。


盛大に濡れ鼠になった麻朱を見て、このまま風邪でも引かせたら洒落にならない、そう思った。


「……とりあえず、タオル持ってくるから」


奥へ向かおうとした、その時だった。


袖を、強く掴まれた。


振り返る。


麻朱は、髪も服もびしょ濡れのまま、そこに立っていた。前髪から落ちた雫が、睫毛を伝って、顎の先へと滑っていく。頬は、走ったせいだけではない色に染まっていた。


袖を掴む指は、強く握られているのに、かすかに震えている。


目が合う。逸れない。笑いもしない。潤んだ瞳が、切実な色で、まっすぐに俺を見上げている。


「……要(かなめ)さん、わたし……」


言葉は、そこで途切れた。それでも、その手の力だけが、その先を饒舌に語っていた。


喉が、からからに乾いていた。雨音が遠のいて、自分の鼓動だけが、耳の奥でうるさい。


一瞬、頭の隅で、理性が囁いた。


――ここを越えたら、もう戻れない。


だが、その声は、すぐに掻き消された。目の前にいる麻朱の表情が、迷いごと押し流していったから。


気づけば、俺は麻朱の頬に手を添えていた。同時に、袖を掴んだままの麻朱の手が、ぐいと俺を引き寄せて、背伸びをする。


どちらからだったのか、分からなかった。


雨に濡れたままの二人で、玄関先で、堰を切ったようにキスをした。一度触れてしまえば、もう、離れ方が分からなかった。麻朱の小さな手が、俺の背中に回される。びしょ濡れの服越しに伝わる体温が、やけに熱く感じられた。


「……っ、要さ……」


かすれた声で名前を呼ばれるたび、抑えていたはずの何かが、音を立てて崩れていく。いつもは自分を律することに慣れているはずなのに、今この瞬間だけは、そのやり方をまるきり忘れてしまったようだった。


麻朱の睫毛が震え、吐息が乱れる。その全部が、愛おしくて仕方がなかった。


今日知ったばかりの、失いたくないという気持ちが、また胸の奥で疼く。その疼きを塗り替えるように、今はただ、目の前の熱だけを追いかけていた。


もう、止まれそうになかった。


その夜、俺たちは、その一線を越えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。