第19話|背徳①
その後のデートは、正直に言えば、あまり記憶に残っていない。どこを歩いたのかも、何を話したのかも、後から思い出そうとしても曖昧にしかたどれなかった。
俺だけではなかったと思う。麻朱もまた、どこか上の空だった。会話の合間に妙な間が空いたり、こちらが話しかけると一拍遅れて返事をしたり――そんな瞬間が、何度もあった。
待ち合わせ場所で絡まれた、あの一件のせいなのか。それとも、まったく別の何かのせいなのか。自分でもよく分からなかった。ただ、二人の間に流れる空気が、いつもと違うことだけは確かだった。
付き合い始めてから、それなりの時間が経つ。それでも俺たちは、手を繋ぐことと、肩に寄りかかることと、時折抱きしめることの、その先へは進んでいなかった。互いにとって、これが初めての恋人だった。先輩後輩という距離感が、いつまでも体に染みついて抜けなかったし、何より――その先に進む勇気が、俺にはまだなかった。
けれど今日は、何かが違った。
言葉にできるようなものではない。ただ、繋いだ手の指先が、いつもより長く絡まっていたり、視線が合うたびに、逸らすまでの間が、少しだけ長くなっていたり。寄り添う距離が、気づけばいつもより近かったり。麻朱の声が、いつもよりほんの少し、甘かったり。
そういう、些細なことの積み重ねだった。それでも俺には、今日という日が、いつもの延長線上にはないのだと、はっきりと分かった。
駅を降りた瞬間、空が唸った。
「――え」
振り仰いだ空は、さっきまでの青さが嘘のように、鉛色に塗り替わっていた。麻朱が言い終えるより早く、大粒の雨が叩きつけてきた。ゲリラ豪雨。傘なんて、二人とも持っていなかった。
「走るぞ」
麻朱の手を掴んで、駆け出す。住宅街の路地を抜け、俺の部屋のあるアパートまで、全力で走った。それでも、着く頃には二人とも、なりふり構わずずぶ濡れになっていた。
玄関の扉を、勢いのまま閉める。廊下に、雨粒の跳ねる音だけが響いた。
駅からここまで、二人とも、ほとんど口をきかなかった。ただ黙って手を繋いで、走り続けていた。息は上がったまま、まだ整わない。
盛大に濡れ鼠になった麻朱を見て、このまま風邪でも引かせたら洒落にならない、そう思った。
「……とりあえず、タオル持ってくるから」
奥へ向かおうとした、その時だった。
袖を、強く掴まれた。
振り返る。
麻朱は、髪も服もびしょ濡れのまま、そこに立っていた。前髪から落ちた雫が、睫毛を伝って、顎の先へと滑っていく。頬は、走ったせいだけではない色に染まっていた。
袖を掴む指は、強く握られているのに、かすかに震えている。
目が合う。逸れない。笑いもしない。潤んだ瞳が、切実な色で、まっすぐに俺を見上げている。
「……要さん、わたし……」
言葉は、そこで途切れた。それでも、その手の力だけが、その先を饒舌に語っていた。
喉が、からからに乾いていた。雨音が遠のいて、自分の鼓動だけが、耳の奥でうるさい。
一瞬、頭の隅で、理性が囁いた。
――ここを越えたら、もう戻れない。
だが、その声は、すぐに掻き消された。目の前にいる麻朱の表情が、迷いごと押し流していったから。
気づけば、俺は麻朱の頬に手を添えていた。同時に、袖を掴んだままの麻朱の手が、ぐいと俺を引き寄せて、背伸びをする。
どちらからだったのか、分からなかった。
雨に濡れたままの二人で、玄関先で、堰を切ったようにキスをした。一度触れてしまえば、もう、離れ方が分からなかった。麻朱の小さな手が、俺の背中に回される。びしょ濡れの服越しに伝わる体温が、やけに熱く感じられた。
「……っ、要さ……」
かすれた声で名前を呼ばれるたび、抑えていたはずの何かが、音を立てて崩れていく。いつもは自分を律することに慣れているはずなのに、今この瞬間だけは、そのやり方をまるきり忘れてしまったようだった。
麻朱の睫毛が震え、吐息が乱れる。その全部が、愛おしくて仕方がなかった。
今日知ったばかりの、失いたくないという気持ちが、また胸の奥で疼く。その疼きを塗り替えるように、今はただ、目の前の熱だけを追いかけていた。
もう、止まれそうになかった。
その夜、俺たちは、その一線を越えた。




