第20話|背徳②
雨は、いつの間にか止んでいた。
窓の外は静かで、部屋の中には、まだ互いの体温だけが残っていた。腕の中で、麻朱が小さく寝息を立てている――と思ったら、ふと目を開けて、こちらを見上げてきた。
「……起きてたのか」
「なんとなく、まだ眠りたくなくて」
麻朱は、俺の胸に頬を寄せたまま、そう呟いた。柔らかい髪が、鎖骨のあたりをくすぐる。
これまで、誰かをこんなに近くに感じたことはなかった。
そう思った瞬間、胸の奥に、温かさとは違う何かが差し込んできた。
――これだけ大事なものができてしまったら、もう、失うことが怖くて仕方がない。
幸せすぎるほど幸せなのに、その分だけ、恐怖の輪郭もはっきりしてくる。矛盾しているとは分かっていても、その両方が、同時に胸を占めていた。
「……なあ」
柄にもなく、声が揺れた。
「なんですか?」
「今だけ、こうしてて、いいか」
答えを待たずに、麻朱の頭をそっと抱き寄せる。誰かに甘えるということが、これまでの人生で、一度もなかった。
麻朱は、驚いたように一瞬体を強張らせたが、すぐに、くすぐったそうに笑って、俺の背中に腕を回してきた。
「……いいですよ。いくらでも」
その声の柔らかさに、また何かが緩んでいく。柄にもなく、誰かに寄りかかりたいと思った自分に、少し呆れながらも――悪くない、と思った。
◇
その報せを受けたのは、政務の合間だった。陛下の病状が、急速に悪化している、と。
俺は、その足で寝室へ向かった。かつて誰よりも力強く民を導いてこられた陛下が、今は寝台の上で、細くなった手を持ち上げることさえ、億劫そうにしていらした。
「……セタルか」
かすれた声で、名を呼ばれる。近づき、片膝をついた。
「陛下。どうか、お力を落とされませぬよう」
「無理を言うな。お前は昔から、そういう気休めが下手だった」
苦しい息の下で、それでも陛下は、少しだけ笑おうとされた。
しばらくの沈黙のあと、陛下は、天井を見つめたまま、静かに切り出された。
「……セタル。頼みが、二つある」
「何なりと」
「一つは、私の後を継ぐ、あれのことだ」
若き王子――やがて即位するはずのその人のことを、陛下はそう呼ばれた。
「あれは、賢い子だ。心も優しい。だが、まだ若い。危うい判断をすることもあるだろう。私が見てきたようには、まだ、何も見えていない」
「……」
「お前が、支えてやってくれ。私にしてきたのと、同じように」
「――御意」
深く、頭を下げた。それだけでも、命に代えても果たすべき役目だと、覚悟していた。
だが、次に陛下の口から紡がれた言葉は、それとは、まるで質の違う重さを持っていた。
「そして、もう一つ」
陛下は、そこで一度、言葉を切られた。
「マアカを――頼む」
その声には、王としての言葉ではない、ただ一人の男としての、剥き出しの願いが滲んでいた。
「あれは、聡明で、強い。……だが、弱い。お前は、誰よりもそれを知っている。だからこそ、あれを、独りにしないでやってほしい」
こみ上げるものを、堪えきれなかった。
最期の願いを、俺に託してくださる。その信頼の重さが、胸に迫った。
気づけば、目の縁が熱くなっていた。幼い頃から陛下の背を追い、忠誠を誓い、これまで一度も、人前で涙を見せたことなどなかったのに。
「……セタル?」
陛下が、驚いたように、こちらを見た。
「お前が泣くところなど、初めて見た」
その声には、からかうような響きが、かすかに混じっていた。こんな時にまで、人を和ませようとされる。そういう方だった。
「……申し訳、ございません」
「謝ることはない。むしろ、光栄だな。お前ほどの男を、ここまで動かせたことが」
陛下は、その翌朝、目を閉じられた。眠るように、静かに。
◇
麻朱の寝息が、また規則正しくなっていた。腕の中の重みが、これほど愛おしく、そしてこれほど恐ろしいものだとは、今日まで知らなかった。
陛下があの時、なぜ「支えてくれ」の後に、あえてもう一つの願いを重ねられたのか。今なら、分かる気がした。
国のことよりも、民のことよりも、最後の最後に、たった一人の人の無事だけを願ってしまう。それが、どれほど身勝手で、どれほど人間らしい願いだったか。
だが、同時に、その安堵の底から、冷たいものがせり上がってくる。
陛下が「頼む」と仰ったのは、臣下として、最も近しい者として、マアカ様を守り支えてくれという意味だったはずだ。生まれ変わった麻朱を、こんなふうに――ひとりの女として愛し、その身体まで知っていいとは、一言も仰っていない。
俺が要であってセタルではないのと同じように、麻朱もまた、マアカ様とは別人だ。頭では、とうに分かっている。それでも、拭い去れない罪の意識が、ずっと胸の底にこびりついていた。今夜、一線を越えてしまったことで、その意識は、これまでとは比べ物にならないほど、重く強くなっていた。
――俺は、陛下への裏切りを、また一つ重ねてしまったのかもしれない。
そう思う端から、腕の中の温もりを手放したくないと願う自分がいる。矛盾した感情は、どちらも消えることなく、同じ胸の中に居座り続けていた。
麻朱の髪に、そっと唇を寄せる。
いつか失うかもしれない誰かを、今この瞬間、ちゃんと大切にしたい。それだけを、強く思った。
罪悪感も、愛おしさも、その両方を抱えたまま――それでも今は、この腕を離したくなかった。




