第21話|ざわめき
最近、私には、不思議なことが二つある。
――なんて、勿体ぶるつもりはないけれど。ただ、その前にまず一つ、すごく幸せなことがある。
要さんとのこと。
あの夜以来、二人で過ごす時間が、前よりずっと甘くなった気がする。手を繋ぐ時の距離も、寄りかかる肩の角度も、何もかもが少しずつ近づいていて、気づけば私は、要さん大好きモードが全然止まらなくなっている。自分でもちょっとやばいなと思うくらい浮かれているけれど、幸せなんだから、まあいいか。
――で、本題の、不思議なこと。
一つ目は、要さんの表情のこと。
相変わらず、普段は淡々としている人だ。それでも最近は、ふとした瞬間に体を預けてきたり、名前を呼ぶ声がほんの少し甘くなったり、そういう変化が増えて、素直に嬉しい。……恥ずかしいと言って、「麻朱さん」の「さん」だけは、まだなかなか外してくれないけれど。
だけど同時に、悲しいような、苦しいような、そんな顔をしていることも、前より多くなった気がする。
思えば前から、時々あった。何かを堪えるような、悔いているような、自分を責めているような――そんな、遠くを見る目をする瞬間が。体を重ねるようになってから、甘い顔が増えた分だけ、その切ない顔も増えた気がして、私はどう受け止めればいいのか分からずにいた。
理由を聞いていいものか、それとも、聞かない方がいいものか。うまく踏み込めないまま、私はただ、その横顔を見ないふりをすることしかできずにいた。
そして二つ目が――あの「夢」。
前は、週に一度見るか見ないか、というくらいだった。それが最近では、ほとんど毎晩のように見るようになっている。
夢の中で私は、誰か好きな人と、ただ幸せな時間を過ごしている。手を繋いだり、笑い合ったり、それだけの、なんでもない夢だ。
――要さんとの毎日が、幸せすぎて、夢にまで漏れ出してるのかな。
そんな風に、自分を笑い飛ばしてみる。海外で見た遺跡や博物館の影響を受けすぎだと思っていたら、今度は自分の恋愛事情まで夢に持ち込むなんて、うちの深層心理はずいぶん忙しいらしい。
不思議なのは、その夢がいつも同じような場所で、同じ顔ぶれの人たちと過ごしているように感じることだった。乾いた空気、強い日差し、石造りの街並み――そんな景色の中に、いつも変わらない誰かがいる。
けれど、肝心のその人の顔だけは、いつも見えない。目が覚める頃には、輪郭も、声も、何もかもが霧の向こうに溶けてしまっていて、ただ「幸せだった」という手触りだけが、しばらく胸に残っている。
こんなに頻繁に、同じような夢ばかり見るなんて、自分でも普通じゃないと分かっている。ちょっと気味が悪い気もするけれど、夢の中身自体はいつも幸せだったり、なんだか懐かしかったりするから、嫌な感じはしない。
夢占いでも調べてみようかな、なんて柄にもないことを考えたりもする。
そういえば、ずいぶん前に一度だけ、要さんに「最近、変な夢見るんだよね」と話したことがあった。あの時の要さんは、どこか戸惑うような、困ったような顔をしていた。
いつも現実的な要さんに、夢の話なんてされても困らせるだけだろう。また、あの眉間の皺を見たくなくて、それ以来、私は夢のことを、言えないままでいる。
◇
「――おい」
要さんの声に、はっと我に返った。
「……え」
いつの間にか、手元の作業が止まっていたらしい。要さんが、呆れたような顔で、目の前に資料を差し出していた。
「ついに、目を開けたまま眠るようになったのかと思った」
「そ、そんなわけないです」
慌てて姿勢を正す。
「はい、これ。この前言ってた資料」
「あ……ありがとうございます」
受け取りながら、ふと目が合う。ただそれだけのことなのに、頬が緩むのが自分でも分かった。
「――うわ」
正面に座っていたこのみさんが、なぜか固まっていた。
「な、なんですか?」
「いや……今の要さんの顔、初めて見たなと思って」
「え?」
思わず要さんの方を見ると、もういつもの淡々とした表情に戻っていた。だけど、耳の先だけが、少しだけ赤い気がする。
「なになに、要のとろけてる顔?」
橘さんまで会話に混ざってきて、要さんは露骨に視線を逸らした。
「別に、そんな顔はしてない」
「してましたよー。麻朱に資料渡す時だけ、目元が完全に緩んでました」
このみさん、揶揄うように続ける。要さんは何も言い返さず、黙って手元の作業に戻ってしまった。それでも、耳の赤さだけは、なかなか引かなかった。
こんなふうに、要さんの変化に気づくのは、私だけじゃなくなってきている。
幸せだ。幸せすぎて、怖いくらいに。
――でも。
幸せなはずなのに、ふとした瞬間、頭を過ぎる。要さんの、あの悔いるような横顔が。あの、日を追うごとに濃くなっていく、不思議な夢が。
理由の分からないまま、心の奥が、小さくざわつく。
けれど、そのざわめきに気を取られていたのも束の間だった。このみさんと橘さんの死角から、要さんが、ふにゃりと緩んだ目でこっそり目配せをしてくる。
その顔を見ていたら、さっきまでの不安が、あっけないくらい簡単に吹き飛んでしまった。
――大丈夫。今は、これでいい。
私はそっと、胸の奥のざわつきに、蓋をした。




