第22話|名前
一昨日の夢は、こうだった。
見たこともないくらい広い庭園を、誰かと歩いていた。花の匂いが濃くて、隣にいる誰かの手を、当たり前のように握っていた。何を話していたのかは覚えていないのに、声を上げて笑っていた記憶だけが、やけに鮮明だった。
昨日の夢では、大勢の人の前で、何かを話していた。
学会発表、というより、もう少し堅苦しい会議のような雰囲気だった。緊張してもおかしくない場面のはずなのに、隣に立つ誰かの存在があまりに心強くて、私はのびのびと自分の意見を口にしていた。話した内容までは思い出せないのに、幸福感だけでなく、ちょっとした高揚感のようなものまでもが、朝まで胸に残っていた。
ここのところ、ずっとこの調子だった。眠っている間はもちろん、起きている間も、頭の中はその日見た夢のことでぐるぐるしている。夢占いのアプリを、こっそりダウンロードしたことは、要さんには内緒にしている。
そして今朝見た夢は、いつもと違った。
いつものような、ふわふわと幸せな気分ではなかった。私は、恐怖の中にいた。どこからか流れる血も、見えた気がする。
「――っ!!」
思わず、飛び起きた。じっとりと、嫌な汗をかいていたことに気づく。心臓が、うるさいくらいに早鐘を打っていた。いつもの夢を見た朝のような、あのふわふわとした余韻とはまるで違う。息が整うまで、しばらく動けなかった。
そして、もう一つ違ったのは、初めて登場人物の顔がはっきり見えたことだった。飛び起きた後になっても、その表情まで、まだはっきり覚えている。
いつもの幸せな夢に出てくる「誰か好きな人」とは、違う人物だった。恐怖と、流血と、そんな状況の中にいる私のことを、心配するような、心底辛そうな、申し訳なさそうな、そんな表情で見つめていた。
それでも、やっぱりどこかで、懐かしい気がした。
昔、どこかで会ったことがある人なんだろうか。
「……誰だっけ」
呟いてみても、答えは出てこなかった。
その日は、一日中上の空だった。講義の内容もほとんど頭に入らなかったし、友達に話しかけられても、二度聞き返す始末だった。頭の隅にこびりついたあの表情が、何をしていても、ふとした瞬間によみがえってくる。
◇
その夜は、いつもの要さんの部屋じゃなく、珍しく私の部屋に来てもらっていた。週末で、明日出かける予定の場所が、私のアパートからの方が近い――それだけの理由だった。
自分の部屋だと、どうしても気が抜ける。肩口の開いたタンクトップのまま、ろくに気にもせず部屋をうろついていたら、不意に要さんが、驚いたような声を出した。
「……それ」
「え?」
要さんの視線は、まっすぐ私の肩口に注がれていた。
「あ、これ?」
私には生まれつき、肩のあたりにうっすらとアザのようなものがある。痛みも違和感もなく、普段の服を着ていれば誰にも見えない場所だから、自分でも気にしたことはほとんどなかった。ホクロみたいなものだと思っている。
「生まれつきあるんです。怪我とかじゃないですよ」
「……残ってしまったのか」
「え? 残った、って?」
「……いや。痛んだりは、しないのか」
言い直した要さんは、今にも泣き出しそうなくらい、辛そうな顔をしていた。こんな些細なことで、そんな顔をしなくてもいいのに。それでも、なんて優しい人なんだろうと思いながら答える。
「ただのマークですよ。痛くないから大丈夫」
少しほっとしたようだったけれど、まだどこか辛そうな表情を残したままの要さんが、愛おしくて堪らなくなって、思わずこちらから腕を回し、ぎゅっと抱きついた。
「……よく、見せて」
そう言って、要さんは、指先でそっとアザの縁をなぞってから、肩口に顔を寄せた。息がかかって、心臓が跳ねる。――と思ったら、そこに、やさしく唇が触れた。
「っ」
くすぐったさに、肩が小さく跳ねる。
指先が、壊れ物にでも触れるように、そっと肌の上を滑っていく。性急さのかけらもない、ひどく丁寧な触れ方だった。
「……要さん」
呼ぶと、要さんが顔を上げた。至近距離で、目が合う。余裕のない表情を見るたび、頭の芯がじわりと痺れていく。
キスが落ちてくる。角度を変えて、何度も。深くなるキスに、思考がとろけて、何も考えられなくなっていく。気づけば、背中がソファに沈み込んでいた。
――のぼせそう。
そう思う一方で、頭の隅に、あの感覚がまた顔を出す。要さんの瞳の奥に、いつもと同じ、あの堪えるような影があった。
――ああ、またいつもの、あの表情だ。
要さん。どうしてそんな、まるで触れてはいけないもののように、私に触れるの? どうしてそんな、何かに耐えているような瞳で、私を見つめるの?
問いは、答えのないまま胸の奥に積み重なり、その問いごと熱に溶けていく。
熱で霞む視界の中で、要さんの表情だけが、ふいに――今朝の夢で見たあの顔と、重なった。
心配するような、辛そうな、申し訳なさそうな。
肌に触れる指先が熱い。息が、うまく吸えない。ぼやけていく頭の中で、散らばっていたものが、勝手に像を結んでいく。
――そうだ。
あの人の名前は。
考えるより先に、唇が動いていた。吐息に混ざるように、その名が零れ落ちた。
「……セタル……」
その瞬間。
要さんの手が、ピタリと止まった。




