第23話|奔流
その夜、俺たちがいたのは麻朱の部屋だった。
普段は、大学から近い俺の部屋で過ごすことが多い。だが今日は、朝からずっと麻朱の様子が気になっていた。ここ最近、あまり眠れていないらしい。目の下にできたわずかな影に、気づかないふりをするのも、そろそろ限界だった。
「今日はもう帰って、ゆっくり休んで。明日の出先、麻朱の部屋の方が近いから」
そう理由をつけて、研究室から先に帰らせた。少しでも長く眠れるように。本当の理由には、気づいていないといいのだが。
遅れて部屋を訪ねると、迎えてくれた麻朱は、すっかり部屋着でくつろいだ様子だった。
「はい、座ってください」
言われるままソファに腰を下ろす。
いつも俺の部屋に泊まる時に持ってくる、あのジャージ姿とは違う。肩や鎖骨のあたりが覗く、いつもより肌の露出が多い部屋着姿で、麻朱がキッチンをうろうろしている。目のやり場に困りながら、それでも視線は自然と、その姿を追ってしまう。
――と、ふと、肩口に目が留まった。
うっすらと赤みを帯びた、細い線のようなアザだった。丸くも、点でもない。まっすぐに、一筋。まるで、何かの刃で薄く裂かれた跡のような形をしている。
見た瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。
「……それ」
思わず声が漏れる。
「え?」
麻朱がこちらを振り返り、自分の肩を覗き込むように首を傾げた。
「あ、これ? 生まれつきあるんです。怪我とかじゃないですよ」
何でもないことのように、麻朱が笑う。
その一言に、かろうじて保っていた平静が、音を立てて崩れていく気がした。
まさか、生まれ変わってなお、消えていないなんて。
頭の奥で、あの日の光景が弾けるように蘇る。賊の手からマアカ様を庇い、それでも防ぎきれなかった、あの一瞬。深く頭を下げた俺に、マアカ様は涙ながらに「セタルのせいじゃないわ」と仰った。それでも消えなかった、あの傷跡と、同じ場所。同じ、まっすぐな線。
俺は、知っている。あの傷が、どうやって刻まれたのかを。誰の油断で、誰の判断の遅れで、彼女の肌に残ったのかを。
「……残ってしまったのか」
気づいた時には、口からこぼれていた。
「え? 残った、って?」
麻朱が、不思議そうにこちらを見る。しまった、と思う。だが、何をどう言い直したところで、誤魔化しきれる気がしない。
「……いや。痛んだりは、しないのか」
かろうじて、それだけを継いだ。声が、思ったより震えていた気がする。
「ただのマークですよ。痛くないから大丈夫」
安心させるように、麻朱が笑ってみせる。それでもまだ心配そうな顔をしていたのか、麻朱が不意に腕を伸ばして、ぎゅっと抱きついてきた。
腕の中の温かさに、ようやく少し息ができた。それでも、罪悪感は少しも軽くならない。
「……よく、見せて」
抱擁を解いて、俺はその肩に触れる。指先で、傷の縁をなぞる。まっすぐな、一筋の線。あの時、俺の反応が、あと一瞬速ければ――。
詫びる言葉は、今の麻朱には、何の意味も持たない。ならば、この気持ちを、どこに置けばいいのか。
行き場のないそれを抱えたまま、俺は、その傷跡に、そっと唇を落とした。
「……要さん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。至近距離で、目が合った。
まっすぐに見つめてくる麻朱の表情に、罪悪感も、それ以外のどうしようもない感情も、まとめて塗り替えられていく。今だけは、セタルではなく、瀬戸要として、この人に触れていたい。そんな、ずるい欲求だった。
何度も、深く、唇を重ねる。麻朱の背が、ソファに沈み込んでいく。腕の中の熱に、思考が塗り潰されていく。
――このまま、何も考えずに済むなら。
そう思う一方で、消えない影が、胸の奥に居座り続けている。誰かに詫びることも許されない、行き場のない感情。それを抱えたまま、麻朱に触れることの後ろめたさを、俺はどうしても手放せずにいる。
麻朱の瞳が、ふと、こちらを見上げたまま止まった。麻朱の唇が動く。名前を呼ばれる――そう思った。だが、彼女の口から紡がれたのは、この世ではもう呼ばれるはずのない、あの名だった。
「……セタル……」
一瞬、何も考えられなくなった。
俺の手が、その場に凍りついたように止まる。
呼吸すら、忘れていた。麻朱の顔を見る。麻朱の様子も、明らかにおかしかった。焦点の合わない目で、こちらを見ているようで、見ていない。
「今……なんて」
それだけを、かろうじて絞り出す。
いつからだ。いつから記憶が戻っていた? 数分前までの、あの無邪気な笑顔が、頭をよぎる。
俺の中で、恐怖が、罪悪感を押し流していく。
◇ ◆ ◇
――セタル。
その名前を口にした瞬間、私の頭の中で、何かが決壊した。
見たこともないはずの景色が、次々と押し寄せてくる。乾いた風。揺れるオリーブの木。アーモンドの花の匂い。日干し煉瓦の家々。石造りの宮殿の、ひんやりとした回廊。
隣を歩く誰かの横顔――エイエル。声に出さずとも、それが誰なのか、私はもう知っていた。
初めて言葉を交わした日。まだ右も左も分からない小娘だった私が、場違いな発言をして、周りをざわつかせたこと。それでも彼だけが、まっすぐな目で私の話を聞いてくれたこと。
婚姻の儀式の日、緊張で震える指先を、そっと握ってくれた温かさ。
夜遅くまで政務に向き合い、それでも私が口を挟むたび、真剣な顔で耳を傾けてくれたこと。疲れた肩を、ふいに抱き寄せられた時の安堵。
いつしか生まれた、幼い声。廊下を駆け回る足音、抱き上げた時の重み、「お母様」と舌足らずに呼ぶ声。エイエルが子供たちを膝に乗せ、柔らかく笑っていた、あの横顔。
季節が巡るたび、少しずつ増えていった白髪。それでも変わらなかった、隣に立つ人の温度。
エイエルが、床に伏した日々。やつれていく体。それでも最期まで、民のことを、そして私のことを気にかけ続けた人。
「マアカ」
その一言に込められた、万感の思い。
――――涙が、止まらなかった。
「……っ、う、あ……」
嗚咽が漏れる。次から次へと溢れてくる記憶に、息をするのもやっとだった。エイエル。もう二度と会えない、あの人。
同時に、今、目の前にいる要さんの顔が、頭のどこかで、ちゃんと分かっている。
分かっているのに、涙は止まってくれなかった。
◇ ◆ ◇
麻朱が、両手で顔を覆って泣いていた。
声を掛けることも、触れることもできなかった。俺の腕は、行き場を失ったまま、宙に浮いている。
「わたし……どうして……どうして忘れていられたの」
くぐもった声で、麻朱がそう漏らす。指の隙間から、涙が止め処なく零れ落ちていた。
「……――エイエル」
絞り出すように、その名前を呼ぶ。
その一言に、心臓を鷲掴みにされたような痛みが走った。
分かっていたはずだった。もし、麻朱が前世の記憶を取り戻せば、こうなることを。それでも、実際にその瞬間を目の当たりにすると、覚悟していた痛みなど、何の役にも立たなかった。
麻朱は今、俺がかつて忠誠を誓った、あの方を想って泣いている。俺がどれだけ手を伸ばしても、届かない場所で。
伸ばしかけた手を、俺は、そっと引っ込めた。
今の麻朱に触れる資格が、俺にあるとは思えなかった。




