第24話|陛下
どれくらいの間、泣いていたのだろう。
まだ、肌が触れ合ったままだった。要さんの体温が、痛いくらい近くにある。それなのに、その距離が、急に遠く感じられた。
嗚咽の波が少しずつ引いていくと、代わりに、ばつの悪さが胸を占めていく。今の今まで肌を重ねていたのに、こんなふうに突然泣き出したりして、要さんをどれほど戸惑わせただろう。
「ご、ごめん、要さん……。私、ちょっと、大事なことを思い出しちゃって……」
涙の跡を拭いながら、顔を上げる。
けれど、目に映った要さんの様子に、続く言葉が喉の奥で凍りついた。
血の気の失せた顔で、こちらを見下ろしたまま、微動だにしない。まるで、その場だけ時間が止まってしまったかのように。息をしているのかどうかさえ、分からなかった。
「要さん……?」
呼びかけると、要さんの唇が、辛うじて動いた。
「申し訳、ございません」
声にならないほど、掠れていた。それでも、その一言だけは、はっきりと耳に届いた。
要さんの口からは、初めて聞くはずの言葉だった。それなのに、胸の奥が、ぎゅっと締め上げられる。
――ああ、知っている。この声を、私は知っている。
深く頭を下げる、誰かの背中。同じ言葉を、幾度も詫びる声。庇われた肩に走った、鈍い痛み。乾いた風の匂いと、ひんやりとした石の回廊。ずっと変わらず、静かに寄り添ってくれた、あの人。
そうだ。あの人の声と、今の要さんの声は、同じだ。
さっき、要さんが見つけた肩のアザ。「……残ってしまったのか」――思わず漏れた、あの一言。生まれつきのマーク、なんてものではなかったのだ。あれは、あの人が、私を庇ってくれた時に負った、傷の跡。
まさか。そんな。よりによって。
「……セタ、ル……?」
かすれた声で、その名前を呼ぶ。
要さんの体が、びくりと震えた。血の気の失せた顔が、さらに強張る。喉の奥から、掠れた呼吸だけが漏れた。
「……っ」
エイエルの、最も信頼していた側近。誰よりも深く、エイエルに忠誠を捧げていた人。決して、王妃である私に、心を寄せることなど許されるはずのない存在。
その、生まれ変わり。
理解が及ぶごとに、犯してしまった罪の輪郭が、じわじわと、重く形を成していく。
要さんが、なかなか私の想いに応えてくれなかった理由。ずっと「織本さん」としか呼んでくれず、恋人となった今も、「麻朱」と呼び捨てにはしてくれない理由。時折見せていた、あの、悔いるような、堪えるような、自分を責めているような表情。
すべてが、今、一本の線で繋がっていく。
「……そんな。ほんとに……?」
要さんは、答えなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
頭の中が、真っ白になる。今、目の前にいるこの人が、あの人だった。エイエルの隣で、いつも静かに佇んでいた、あの人。私がどれほど距離を詰めようとしても、頑なにその一線だけは守り続けた人。
その人が、今、こんなふうに、私に触れていた。私を、好きだと言ってくれていた。
「……っ」
視界が、また歪む。涙が、後から後から溢れてきて、止め方が分からなかった。悲しみなのか、混乱なのか、罪悪感なのか、もう自分でも分からないまま、しばらく声も出せずに泣き続けた。
ようやく、少しだけ息ができるようになった時、言葉にならない想いを、そのまま吐き出すことしかできなかった。
「私……、エイエルを忘れられない」
声が、震える。それでも、次の言葉は、もっと切実だった。
「でも、私、要さんが好き。……どうしたらいいの」
両手で顔を覆って、泣いた。
要さんは、しばらく黒く沈んだ沈黙を纏っていた。やがて、ゆっくりと唇を開く。だが、その口調は、いつもの彼のものではなかった。
「すべて、私の罪です」
視線は伏せられたまま。一度も、こちらを見ない。
「王妃陛下の生まれ変わりと知りながら、愛しく思ってしまったこと、畏れ多くも……触れてしまったこと、お詫びのしようもございません」
深く、深く、頭を下げる。
「……っ、やめて、要さん」
伸ばした手は、届かなかった。要さんが、静かに、その手を避けたからだ。それだけのことが、平手打ちより痛かった。
「……要さん?」
要さんは、何も答えずに、勢いよくソファから体を起こした。手近な服を乱雑に引っ掛け、ボタンも留めきれないまま、荷物を掴む。その動きには、いつもの淡々とした落ち着きなど、欠片も残っていなかった。
それでも、ふと足を止め、ソファに丸まったままの私の肩に、無言で毛布をかけてくれた。その手だけが、一瞬、いつもの優しさを残していた。
「要さん、待って」
「申し訳ございません――」
顔を上げることなく、それだけを繰り返す。そのまま逃げるように身を翻し、足早に玄関へ向かう。追いかけようとした足が、もつれた。
「要さん!」
呼んだ声は、届かなかった。
ドアが閉まる音だけが、静まった部屋に、いつまでも残った。
一人になった部屋で、涙は止まらなかった。
エイエルを失った悲しみなのか、要さんを失うかもしれない恐怖なのか、自分でも分からなかった。ただ、二つの感情が絡み合ったまま、いつまでも胸の中で暴れていた。




