第29話|氷解②
――私が、織本麻朱が、大好きでたまらない、瀬戸要さんだよ。
その一言が、頭の中で、いつまでも反響していた。
同時に、堰を切ったように、記憶が押し寄せてくる。
方向感覚のない麻朱を、何度も迎えに行った、あの日々。いつも涼しい顔をしているはずの自分の疲れに、真っ先に気づいて、無理やり押し付けてきた、ほうじ茶の温度。ことあるごとに、場の空気を明るい方へ引き上げていった、彼女の笑い声。
初めて手を握った日の、あの体温。抱きしめた時の、腕の中の重み。何気ない日常の中で、幾度となく交わした、たわいもない会話と、笑い合った瞬間。研究室の蛍光灯の下で、麻朱の淹れたインスタントコーヒーを飲みながら過ごした、何でもない夜。
――どれも、紛れもなく、瀬戸要として生きてきた、俺自身の記憶だった。
セタルとして生きた記憶が、今もこの体に染みついているのと同じくらい、この記憶もまた、俺という人間を形作っていた。どちらか一方だけを選んで、もう一方を切り捨てることなど、初めからできるはずがなかったのだ。
麻朱の言う通りだった。俺たちは、前世とは別の人間だ。分かっていたはずなのに、罪の重さに押し潰されて、そのことを、ずっと見ないふりをしてきた。目を逸らし続けることが、せめてもの誠実さだと、勝手に思い込んでいた。
◇ ◆ ◇
要さんの瞳が、何かに耐えるように、揺れていた。
このまま、押し切れるかもしれない。そう思った瞬間、ふと、頭の隅に、ある記憶がよぎった。忘れていたわけじゃない。ただ、今の今まで、それを持ち出すべき瞬間が来るとは、思っていなかっただけだった。
「……そういえば、エイエルが、生きてた頃に、こんなことを言ってたの」
要さんが、わずかに顔を上げる。
「『もし生まれ変わったら、何になりたい?』って、冗談半分で聞いたことがあったの。そしたらエイエル、笑いながら、『生まれ変わりたくない』って」
要さんが、息を呑む気配がした。
「理由を聞いたら、『今の人生を超えることなんて、二度目にはできないだろうから』って。国王として、妃と子供たちと、大切な忠臣に恵まれた、この上ない人生だったから、って」
一度、言葉を切る。部屋の空気が、わずかに変わったのが分かった。
「だから、エイエルは、きっと生まれ変わってなんていない。誰も、要さんを責めたりしない。私も、揺れたりしない。大丈夫だよ」
要さんは、まだ何も言わなかった。それでも、その沈黙は、さっきまでとは、少し違って感じられた。凍りついていたものが、ほんの少しだけ、緩み始めているような。
「それに――」
少しだけ声を落として、その口調を真似るように続けた。
「『セタルよ。マアカを頼むと言ったであろう』――エイエルなら、きっとそう言うんじゃない?」
要さんの喉が、微かに動いた。
「だって、私のこと頼むって、あの人はそう言ったんでしょ? あれは、私が笑っていられるように、そばにいてほしいっていう意味だったんじゃないかな。だったら、今のあなたは、もう、ちゃんとその通りにしてる。それを、罪だなんて、言わせない」
要さんは、何も言わなかった。ただ、握られたままの手に、わずかに力がこもるのが分かった。
「私、エイエルのことは、一生忘れない。でも、エイエルは、私が今、幸せでいることを、一番喜んでくれる人だった。だから――要さんが、その幸せの隣にいてくれることを、恨むはずがないと思うの」
◇ ◆ ◇
――お前が、あれを大切に想ってくれるなら、それでいい。
不意に、頭の奥で、声が響いた。
聞き覚えのある、あの方の声だった。低く、静かで、それでいて、有無を言わせぬ響きを持った声。
――誰よりも、あれの聡明さも、強さも、弱さも知っているお前以上に、それができる者が、どこにいる。
記憶の奔流の中に、その声が、静かに重なっていく。玉座の間の、あの乾いた空気の匂いまで、鮮明に蘇ってくるようだった。
自分一人の想像だったなら、きっと最後まで、都合のいい言い訳だと切り捨てていただろう。けれど、麻朱の――かつてマアカ様だった人の言葉だったから、初めて、そう思うことが赦された気がした。
エイエル様。
もし本当に、あの方がそう仰るのなら。
長く胸の中に凝り固まっていた何かが、音を立てて、崩れていく感覚がした。何年も――いや、何百年も、抱え続けてきた塊が、ゆっくりとほどけていくようだった。
視界が、滲んだ。
「……ごめん」
気づけば、麻朱の体を、強く抱きしめていた。
「麻朱。俺……ごめん」
初めて、その名を、素のまま呼び捨てにする。震えていて、情けないくらい掠れていた。それでも、確かに、自分自身の声だと思えた。




