↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/30

第30話|朝凪

しばらくの間、声にならない嗚咽だけが、静かな部屋に響いていた。


麻朱(まあか)は、何も言わずに、ただ俺の背中に腕を回してくれていた。彼女もまた、時折小さく肩を震わせて、泣いているようだった。その体温と、呼吸の音だけが、今の俺を、かろうじて現実に繋ぎとめてくれていた。


どれくらい、そうしていただろう。


涙は、少しずつ収まってきていた。それでも、まだ腕を離す気にはなれなくて、俺は、麻朱を抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。


「……お前こそ」


「え?」


腕の中で、麻朱が小さく顔を上げる気配がした。


「お前こそ、突然『セタル』って呼ぶな」


「……それは、ほんとごめん」


申し訳なさそうな声のはずなのに、どこか笑いを噛み殺しているような響きが混じっていた。誤魔化しきれていないその声に、なんだか、こっちまで気が緩んだ。


俺は、抱擁を解いた。至近距離で、じとりと麻朱の顔を見る。


「しかも、よりによって『コト』の最中に、あんな声で呼ぶかよ。頭おかしくなるだろ」


「ちょ……っ」


麻朱の顔が、見る間に赤くなっていく。分かりやすいその反応に、少しだけ溜飲が下がる思いがした。


――このくらいは、仕返ししてもいいだろう。


そう思うと、勢いのまま、続けていた。


「そもそも。なんで名前『マアカ』と『麻朱』で一緒なんだ、ずるいだろ」


「文句なら、親に言ってください」


麻朱が、拗ねたように唇を尖らせる。それでも、その声には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。


俺たちは、しばらく、そうやって他愛もない言葉を交わし合った。ついさっきまで、部屋に立ち込めていた重苦しい空気が、少しずつ薄れていくのが分かった。


「……要(かなめ)さん」


ひとしきり笑い合った後、麻朱が、ふっと表情を緩める。嬉しそうに目を細めると、もう一度、こちらに体を預けてきた。


「大好き」


腕の中に、麻朱の温もりが戻ってくる。その素直な一言に、胸の奥が、じんわりと熱くなった。


俺は、その体を、そっと抱き返した。


――それでも。


しばらく無言でそうしていると、ふと、また胸の奥に、重たいものが顔を出した。押し込めたつもりでいた罪悪感が、凪いだ水面に、また小さな波紋を広げていく。


「……ハァー」


思わず、深いため息がこぼれた。


「まだ、背徳感やばいわ」


正直に、そう零す。麻朱を抱きしめる腕に、後ろめたさが混じる。エイエル様に対して、誰よりも忠実であろうとしてきた自分が、今、その方の妃であった人を、こうして腕の中に閉じ込めている。その事実は、そう簡単には消えてくれそうになかった。


腕の中で、麻朱が、くすっと笑う気配がした。


「要さん、万が一エイエルも現代に生まれ変わってたら、ってのを一番恐れてるんでしょ」


図星を突かれて、俺は答えに詰まった。


「大丈夫だよ」


明るい声だった。


「もしこの世のどこかにいたとしても、あの人のことだから、どうせ超セレブの家にでも生まれて、左うちわで暮らしてるよ。私たちとは、絶対絡みないから」


あまりに突拍子もない発想に、俺は、思わず言葉を失った。


「……お前、そういう発想、どこから出てくるんだよ」


呆れ半分、笑い半分でそう言うと、麻朱が、悪戯っぽく笑った。


「人生、二週目ですから」


得意げな顔で、小さくピースを作ってみせる。

 

その軽さに、詰まっていた息が、少しだけ抜けていく。


そうだ。この人は、いつもこうやって、俺が一人で抱え込みそうになる瞬間に、ひょいと横から手を差し伸べてくれる。真面目に向き合うことも、笑い飛ばすことも、両方できる人だった。


俺は、もう一度、腕の中の麻朱を、強く抱き寄せた。


「……ありがとな」


「どういたしまして」


麻朱が、満足そうに笑う声が、耳元で聞こえた。


「……お腹空いた」


不意に、麻朱が呟く。その場違いなくらい素直な一言に、強張っていたものが、また少し緩んでいく気がした。


「……俺も」


笑いながら答えると、麻朱が、こちらを見上げてくる。


「コンビニ、行く?」


あまりにも普通なその提案に、笑いがこぼれた。本当に、この人は、どこまでも麻朱なんだと思う。


「行くか」


そう答えたものの、どちらも、すぐに体を離す気にはなれなかった。


窓の外は、いつの間にか、白み始めていた。互いの鼓動だけを感じながら、俺たちは、しばらくそのまま、言葉もなく抱き合っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。