第30話|朝凪
しばらくの間、声にならない嗚咽だけが、静かな部屋に響いていた。
麻朱は、何も言わずに、ただ俺の背中に腕を回してくれていた。彼女もまた、時折小さく肩を震わせて、泣いているようだった。その体温と、呼吸の音だけが、今の俺を、かろうじて現実に繋ぎとめてくれていた。
どれくらい、そうしていただろう。
涙は、少しずつ収まってきていた。それでも、まだ腕を離す気にはなれなくて、俺は、麻朱を抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。
「……お前こそ」
「え?」
腕の中で、麻朱が小さく顔を上げる気配がした。
「お前こそ、突然『セタル』って呼ぶな」
「……それは、ほんとごめん」
申し訳なさそうな声のはずなのに、どこか笑いを噛み殺しているような響きが混じっていた。誤魔化しきれていないその声に、なんだか、こっちまで気が緩んだ。
俺は、抱擁を解いた。至近距離で、じとりと麻朱の顔を見る。
「しかも、よりによって『コト』の最中に、あんな声で呼ぶかよ。頭おかしくなるだろ」
「ちょ……っ」
麻朱の顔が、見る間に赤くなっていく。分かりやすいその反応に、少しだけ溜飲が下がる思いがした。
――このくらいは、仕返ししてもいいだろう。
そう思うと、勢いのまま、続けていた。
「そもそも。なんで名前『マアカ』と『麻朱』で一緒なんだ、ずるいだろ」
「文句なら、親に言ってください」
麻朱が、拗ねたように唇を尖らせる。それでも、その声には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
俺たちは、しばらく、そうやって他愛もない言葉を交わし合った。ついさっきまで、部屋に立ち込めていた重苦しい空気が、少しずつ薄れていくのが分かった。
「……要さん」
ひとしきり笑い合った後、麻朱が、ふっと表情を緩める。嬉しそうに目を細めると、もう一度、こちらに体を預けてきた。
「大好き」
腕の中に、麻朱の温もりが戻ってくる。その素直な一言に、胸の奥が、じんわりと熱くなった。
俺は、その体を、そっと抱き返した。
――それでも。
しばらく無言でそうしていると、ふと、また胸の奥に、重たいものが顔を出した。押し込めたつもりでいた罪悪感が、凪いだ水面に、また小さな波紋を広げていく。
「……ハァー」
思わず、深いため息がこぼれた。
「まだ、背徳感やばいわ」
正直に、そう零す。麻朱を抱きしめる腕に、後ろめたさが混じる。エイエル様に対して、誰よりも忠実であろうとしてきた自分が、今、その方の妃であった人を、こうして腕の中に閉じ込めている。その事実は、そう簡単には消えてくれそうになかった。
腕の中で、麻朱が、くすっと笑う気配がした。
「要さん、万が一エイエルも現代に生まれ変わってたら、ってのを一番恐れてるんでしょ」
図星を突かれて、俺は答えに詰まった。
「大丈夫だよ」
明るい声だった。
「もしこの世のどこかにいたとしても、あの人のことだから、どうせ超セレブの家にでも生まれて、左うちわで暮らしてるよ。私たちとは、絶対絡みないから」
あまりに突拍子もない発想に、俺は、思わず言葉を失った。
「……お前、そういう発想、どこから出てくるんだよ」
呆れ半分、笑い半分でそう言うと、麻朱が、悪戯っぽく笑った。
「人生、二週目ですから」
得意げな顔で、小さくピースを作ってみせる。
その軽さに、詰まっていた息が、少しだけ抜けていく。
そうだ。この人は、いつもこうやって、俺が一人で抱え込みそうになる瞬間に、ひょいと横から手を差し伸べてくれる。真面目に向き合うことも、笑い飛ばすことも、両方できる人だった。
俺は、もう一度、腕の中の麻朱を、強く抱き寄せた。
「……ありがとな」
「どういたしまして」
麻朱が、満足そうに笑う声が、耳元で聞こえた。
「……お腹空いた」
不意に、麻朱が呟く。その場違いなくらい素直な一言に、強張っていたものが、また少し緩んでいく気がした。
「……俺も」
笑いながら答えると、麻朱が、こちらを見上げてくる。
「コンビニ、行く?」
あまりにも普通なその提案に、笑いがこぼれた。本当に、この人は、どこまでも麻朱なんだと思う。
「行くか」
そう答えたものの、どちらも、すぐに体を離す気にはなれなかった。
窓の外は、いつの間にか、白み始めていた。互いの鼓動だけを感じながら、俺たちは、しばらくそのまま、言葉もなく抱き合っていた。




