第28話|氷解①
橘さんから連絡が来たのは、木曜の夜だった。
『今行けば、要、アパート戻ってると思うぞ』
それだけの、素っ気ないメッセージだった。それでも、画面を見た瞬間、椅子から立ち上がるのに、迷いはいらなかった。
上着も羽織らず、私は部屋を飛び出していた。
要さんのアパートに着く頃には、息が上がっていた。それでも、一段飛ばしで、階段を駆け上がった。ドアの前に立った途端、心臓が、耳の奥でうるさく鳴っているのが分かった。
インターホンを押す。応答はない。もう一度、押す。
「要さん、開けて。麻朱だよ」
そう言いながら、ドアをノックしてみる。それでも、扉の向こうは静まり返ったままだった。物音ひとつしない。息を潜めているのが、ドア越しにも伝わってくるようだった。
きっと、居留守だ。あるいは、私の声すら、聞く気になれないのかもしれない。
それでも――このまま、帰るわけにはいかなかった。
もう一度、スマホで電話をかけてみる。呼び出し音が虚しく鳴り続けるだけで、やはり出ない。念のため、ドアノブにも手をかけてみたけれど、当然のように鍵はかかったままだった。
――だったら。
私は、大きく息を吸った。喉の奥が震えるのが分かったけれど、それでも、自分でも驚くほど、迷いのない声が出た。
「――セタル! 開けなさい!」
自分の口から出た、その名前に、一瞬遅れて自分自身が戸惑った。それでも、もう止まらなかった。
数秒の沈黙の後、鍵の開く音がした。
ドアが、ゆっくりと開く。
現れた要さんからは、抗いようもなくドアを開けてしまった、というような戸惑いが、滲んでいた。
「あっ、効いた」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
「……お前な」
要さんが、顔をしかめながら、力なく突っ込む。その気の抜けたやり取りに、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……中、入っていい?」
要さんは、しばらく黙っていたが、やがて、諦めたように体をどかした。
散らかったままの部屋に、二人分の沈黙が落ちる。カーテンの閉め切られた部屋は、時間の感覚を失ったみたいに薄暗かった。要さんは、目の下に濃い隈を作り、頬もこけていた。何日も、まともに眠っていないのだろう。ソファに向き合って座っても、こちらと目を合わせようとしなかった。指先だけが、落ち着かなげに膝の上で動いていた。
「要さん」
呼びかけても、反応は薄い。もう一度、名前を呼ぶ。
「要さん、まずは、ごめんなさい」
要さんが、わずかに肩を揺らした。
「私、突然記憶が戻って、あまりに混乱していて。要さんだけに、しんどい思いを抱えさせちゃったよね。ごめんなさい」
「……いえ」
ようやく、掠れた声が返ってくる。喉から絞り出すような、痛々しい声だった。
「私の罪ですので。申し訳、ございません。王妃陛下」
その一言に、胸の奥が、かっと熱くなった。ここ数日、ずっと想像していた通りの言葉だった。それでも、実際に聞くと、思っていた以上に胸が軋んだ。
「陛下って、呼ばないで」
思わず、強い声が出た。
「私は、麻朱だよ」
要さんが、ようやくこちらを見る。その目には、まだ深い迷いが揺れていた。まるで、目の前にいる私が誰なのか、決めかねているみたいに。
「私、ずっと考えてた。金曜の夜から、ずっと。エイエルのことも、マアカとして生きた記憶も、全部本物。それは、これからも変わらない」
一度、言葉を切る。
「――でも、それと同じくらい、織本麻朱として、瀬戸要と過ごしてきた時間も、本物なの。いつもの、研究室での時間も。夜遅くまで、一緒に頑張ってくれたことも。手をつないだことも。抱きしめてくれたことも。全部、私が積み重ねてきた、かけがえのない時間」
「……いや、でも」
要さんが、目を伏せたまま、かろうじて言葉を継ぐ。
「記憶が戻られたなら……そういうわけには、いきません」
「聞いて、要さん」
私は、要さんの手を、そっと取った。指先は、驚くほど冷たかった。
「要さんだって、記憶がずっとあったなら、よく分かるでしょう? 私たちは、前世とは別の人間なんだって。前世のことまで引きずり出して、それを罪だと決めつける必要なんて、本当はないはずなの」
要さんは、答えなかった。それでも、逃げようとはしなかった。握った手を、振りほどきもしなかった。
「もし――これが罪だって言うなら」
言葉を選びながら、続ける。
「その罪は、私も一緒に背負う。要さん一人にだけ、背負わせたりしない。分かち合いたいの」
要さんの喉が、小さく上下する。それでも、まだ、何かに耐えるように、視線を落としたままだった。
私は、その手を、もう一度強く握った。
「あなたは、セタルじゃない。今、目の前にいるのは、瀬戸要さんだよ」
真っ直ぐに、その名前を呼ぶ。
「私が――織本麻朱が、大好きでたまらない、瀬戸要さんだよ」




