第27話|彷徨
――バレた。すべて、バレた。
マアカ様に。俺の罪が。俺の、裏切りが。
いや、違う。誰よりも欺いたのは、エイエル様だ。もう、この世にはおられないあの方だ。それでも、マアカ様のお姿の向こうに、あの方の気配を見てしまう。まるで、今もどこかから見つめられているような気がして、その罪の重さから、逃れられなかった。
麻朱が前世のことを何一つ覚えていないのをいいことに、俺は、何も知らないままの彼女に甘え続けた。好きだと言ってくれることに、触れさせてくれることに、ずっと甘え続けてきた。そして、自分の欲望のままに、何も知らない麻朱を――マアカ様を、抱いたのだ。
その事実に、今さら気づいたわけではない。ずっと分かっていた。分かっていて、それでも、止められなかった。
誰よりも取り乱さない人間だと、自分でも思ってきた。それなのに、たった一つの欲望さえ制御できなかった。その事実が、罪悪感と同じくらい、惨めで、情けなかった。
気づけば、部屋を飛び出していた。
行き先なんて、決めていなかった。ただ、あの部屋にはもう一秒たりともいられなかった。彼女の、あの涙を、これ以上見ていられなかった。
夜の街を、当てもなく歩き続けた。いつも二人で歩いた道は、無意識に避けていた。代わりに選んだのは、何のゆかりもない、見知らぬ路地ばかりだった。
歩きながら、頭の中では、同じ言葉だけが繰り返し木霊していた。
――申し訳ございません。申し訳ございません。
その言葉しか、出てこなかった。それ以外に、自分に許された言葉などないような気がした。
俺は、一体どこに向かっているんだろう。
行くあてなど、どこにもなかった。
◇
結局、明け方近くまで歩き続けた。ベンチに座り込み、しばらく動けなくなった。頭の中は、詫びる言葉と、彼女の泣き顔でいっぱいのまま、何も考えがまとまらなかった。
そのまま、日が昇るのをどこかぼんやりと眺めていたと思う。
気づけば、足は大学へ向いていた。研究室ではない。もっと奥、普段は誰も寄りつかない、資料保管室の方だった。
あの地域から出土した土器の破片や、発掘調査の写真、古い文献の複製。棚に並ぶそれらを眺めていると、頭の芯だけは、不思議と凪いでいく気がした。
研究に行き詰まった時、以前はよくここに来ていた。あの乾いた風の匂いも、日干し煉瓦の質感も、ここにあるものを見ていると、自分でも驚くほど鮮明に思い出せた。まるで、自分の原点を確かめるような場所だった。
――麻朱と出会ってからは、一度も来ていなかった。
思えば、必要がなかったのだ。前世の記憶は、いつも麻朱自身が呼び覚ましてくれていた。彼女という存在そのものが、俺にとって、過去へ繋がる媒介だった。だから、ここに助けを求める理由が、これまではなかった。
誰もいない部屋の隅に座り込み、ただ古い写真を眺めて過ごした。スマホの電源は、いつからか切っていた。
土曜の夜、さすがに限界を感じた。この大学には、主に一年生や留学生が入る学生宿舎があり、その一角に、共同浴場がある。宿舎生でなくても、自販機で入浴券を買えば、学生なら誰でも使えた。せめて、体だけでも洗い流したかった俺は、久しぶりにそこへ足を向けた。
洗い場で、ぼんやりと湯を浴びていると、不意に声をかけられた。
「お前、宿舎生でもないのに、こんなとこで何してんだよ」
橘さんだった。振り返った俺の顔を見て、橘さんが一瞬、口をつぐむ。
「……ってか、顔、死んでるぞ」
答えられなかった。何と言えばいいのか、自分でも分からなかった。
橘さんは、しばらく黙って俺を見ていたが、やがて、それ以上は何も聞いてこなかった。
「……今日は、俺の部屋来い。話はまた今度でいい」
その一言だけで、なぜか涙が出そうになった。
◇
それから、数日が過ぎた。
橘さんの部屋は、院生の頃からもう何年も住んでいるという、世帯向けの宿舎だった。
「独り身なのに、たまたま充てがわれたのがこの部屋でさ。快適すぎて、もうアパートには引っ越せんのよ」
そう話しながら、橘さんは、使っていないスペースに布団を敷いてくれた。
その部屋に泊めてもらいながら、昼間はほとんど資料保管室か、図書館の奥、誰も足を踏み入れない書架の間に潜り込んで過ごした。研究室には、顔を出す気力が湧かなかった。
麻朱から、何度も着信が入っていることには、気づいていた。メッセージも、いくつも届いていた。それでも、画面を開くことすら、俺にはできなかった。
――何を、今さら伝えられるというんだろう。
「申し訳ございません」以外の言葉を、俺は持っていなかった。
橘さんは、何も聞いてこなかった。ただ、夜になると、布団の場所や、飯を勧めるくらいの、普段通りの態度で接してくれた。それが、今の俺には、痛いくらいありがたかった。
四日目の夜、飯を食べ終えた後、橘さんがぽつりと言った。
「何があったのかは、聞かんけど」
箸を置いて、こちらを見る。
「織本に、心配かけすぎんなよ。落ち着いたら、ちゃんと家、帰れ」
それだけ言うと、橘さんはテレビに視線を戻した。それ以上、何も追及してはこなかった。
その夜、なかなか寝付けなかった。
このまま、いつまでも逃げ続けるつもりか。
麻朱の顔を、まだ見られる自信はない。それでも、いつまでも橘さんに甘え続けるわけにもいかない。
翌朝、俺は、静かに荷物をまとめた。
「……お世話になりました」
「おう。また、研究室でな」
橘さんは、それだけしか言わなかった。詮索しない優しさが、今はただ、ありがたかった。
自分のアパートへの道を歩きながら、俺はまだ、何一つ答えを持っていなかった。それでも――このまま消えてしまうわけにはいかない。そう思う気持ちだけが、かろうじて足を前へ動かしていた。




