第26話|罪
堂々巡りを抱えたまま、週明けを迎えた。
いつも通り講義を受けて、いつもと変わらない顔をして、研究室に向かう。けれど、いつもの席に、要さんの姿はなかった。
「あれ、要さん来てないですね」
このみさんが、何気なくそう言った。誰も、深い事情までは知らない。ただの、いつもの日常の一言だった。それが、今の私には、やけに重く響く。
一日、上の空のまま過ごした。
研究室を出て、帰り道を歩く。頭の中では、まだエイエルのことも、前世のことも、罪悪感も、ぐちゃぐちゃに渦を巻いたままだった。何を考えているのかさえ、自分でもよく分からない。
いつもの、鍵を返しに行く道。上の空で歩いていた足が、見慣れた自販機の前で、不意に止まった。
自動販売機の無機質な光が、やけに白々しく目に映った。それを見つめているうちに、渦を巻いていた思考が、その一点に向かって、急に吸い寄せられていく。
「……っ」
思わず、息を呑む。
――そうだ。私は、麻朱だ。要さんと、ここにいた。
ここで、いつも、おすすめを選び合っていた。指差して、笑い合っていた。
そう思い出した途端、記憶が、堰を切ったように押し寄せてきた。
初めて要さんに声をかけられた、あの日の研究室。方向感覚のかけらもない私を、呆れながらも見捨てずに、いつも探しに来てくれたこと。文献の読み方も、まとめ方も分からなかった頃、根気強く付き合ってくれたこと。
レポート提出前夜、構成が根本から破綻していることに気づいて泣きそうになった時、隣で黙って一緒に組み立て直してくれた指先。ゼミ発表の前日、緊張で眠れないと零したら、電話越しに「大丈夫だよ」とだけ、静かに言ってくれた声。
ようやく恋人になれた日の、あの掴まれた手首の強さ。泣きながら抱きしめられた、あの夜の温もり。
一つ一つの記憶が、次から次へと押し寄せてくる。まるで、今度は「私自身」の記憶が、雪崩のように蘇っているようだった。
これは、紛れもなく、私が積み重ねてきた時間だ。
マアカとしての人生も、本物だった。けれど、織本麻朱として、瀬戸要と過ごしてきた、この時間も、同じくらい本物だ。どちらかを選んで、どちらかを切り捨てるなんて、できるはずがない。
喪失は、消えない。けれど。
今、大事にすべきなのは――この人生だ。
自販機の前で立ち止まったまま、私はしばらく、動けなかった。
震える指先で、スマホを取り出す。要さんの名前を呼び出して、発信ボタンを押した。
呼び出し音が、やけに長く響いた。
……繋がらない。
送ったメッセージにも、既読の文字はつかないまま、画面の中に白く浮いていた。
まぶたの裏に、あの夜の要さんの顔が蘇る。血の気の失せた顔で、こちらを見下ろしたまま、何も言えずにいたあの表情。逃げるように部屋を出て行った、その背中。
――胸が、鈍く痛んだ。
一人にこの罪悪感を背負わせるつもりなんて、なかったはずなのに。結果として、要さんを、一人きりにしてしまっている。
どうして、あんなことを口にしてしまったんだろう。混乱していたとはいえ、よりによってあの瞬間に、「エイエルを忘れられない」だなんて。
……ばかだ、私。
ふと、頭の隅に、一つの考えがよぎる。
私でさえ、こんなにも罪悪感で押し潰されそうになっているのに。要さんは、一体どれほどだったのだろう。
セタルは、エイエルを誰よりも敬愛し、誰よりも深く忠誠を誓っていた人だった。それに、生来、誰よりも生真面目で、決して一線を越えようとしない人でもあった。そのセタルの記憶を抱えたまま、要さんは、一体どれほど思い悩み、どれほど自分を責め続けてきたのだろう。
前世の記憶を取り戻してもなお、要さんを好きだという気持ちも、触れたいと思う衝動も、少しも消えてくれない。それを、自分自身の体で思い知った今だからこそ、要さんの葛藤が、痛いほど分かる気がした。
けれど私たちは今、瀬戸要と織本麻朱として、生きている。前世のことまで引きずり出して、それを罪だと決めつける必要なんて、本当はないはずだ。
――それでも、もしこれが罪だと言うのなら。
その罪は、二人で背負うべきものだ。一人だけで、抱え込ませたりはしない。
いつも根気強く、諦めずに、私に付き合ってくれた人だった。今、要さんがどこで何を思っていようとも、今度は私が、要さんとの時間を、取り戻しに行く。




