26.彼女にとってはいつもの災難
ドアを閉めた瞬間、車が静かに走り出す。車内は寒いと感じるほど、空調がよく効いていた。懐かしいなぁ。この車に乗るのって、何年ぶりだろう。あれから三年ぐらい経ってる? ベージュ色の革で覆われた座席、こちらを頑なに見ようとしない、紺色スーツ姿の運転手。
足を伸ばしても、空間がまだ余っていた。ボストンバッグ二個積んだとしても、足が伸ばせる広さの高級車。奥様が愛用しているハイブランドの香水の匂いが漂っていた。むせ返るほど甘い、百合とバニラの香り。
「さすがは不倫女の娘ね。転職したばかりでしょう? もう男をたぶらかしているの?」
「……あの人は職場の先輩ですよ。付き合っていません」
「どうだか。フィオナちゃんのこと、すっごく心配してたじゃない」
「彼は見た目によらず、親切で、誰に対しても優しいんです」
言葉選びを間違えちゃいけない。ひやひやしてしまう。私、余計なこと言いがちだからなー……。気をつけないと。神経を張り詰めて答えなくちゃ。失敗すれば、平手打ちが飛んでくる。バッグの中身、魔術で移動させたいところだけど、上手くいくかどうか。はあ、と奥様が大げさな溜め息を吐いた。びくっと背中が揺れて、凍りつく。
「本当に? 実の兄もたぶらかして、意のままに操る女の言うことなんて信用できないわ。今の職場、アンソニーから紹介して貰ったんでしょう?」
「……」
「一体、どういうつもり? あのしみったれたボロい雑貨屋でずぅーっと、働いておけば良かったのに。お嬢様暮らしがしたくなったのかしら? ああ、それとも、ゆくゆくは私の可愛い息子の下で働くつもり?」
「いっ、いいえ! 違います、私は」
「うるさい、黙れ!!」
目にも止まらぬ速さで平手打ちされた。頬がじんわり熱くなる。うー、失敗した! 声を荒げず、静かに否定するべきだったのに。奥様が青い瞳を吊り上げ、憎々しげな形相で睨みつけてくる。背筋が冷え、呼吸できなくなった。
まさか、そんな風に思われていたなんて……。アンソニーお兄様は魔術業界でかなりの有名人だから、確かにコネを使い、ゆくゆくはお兄様の下で働こうとしてるって誤解されるのも無理はない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。頭が真っ白になった瞬間、髪の毛を引っ張られた。
「うぁっ!?」
「こういう時はなんて言うの!? 教えてきたでしょ、昔から!」
奥様が激昂して叫ぶ。あ、まずい。悲鳴を上げちゃいそう。とっさに歯を食い縛って、口元を押さえる。予想通り、髪の毛を何本か引き抜かれた。痛い。燃えるような痛みが襲いかかってくる。目元に涙が浮かんだ。えっと、泣きそうになった時は顔を伏せて、涙を見せないようにする。一刻も早く謝る。
「……生意気な口を聞いて、申し訳ありませんでした」
「少し見ないうちに、ちょっと生意気になったんじゃない? 躾け直さないとね」
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
「口だけでなら何とでも言えるわ。あーあ。息子も、夫も、こんなグズで生意気な子のどこがいいのかしら? 最近、夫と会ってないでしょうね」
「もちろんです。会っていません」
「クレジットカードの明細を見てるから、隠そうとしたって無駄よ。また、私の夫から何か貰ったら、家まで行って捨てるからね」
「はい。何か貰ったら、必ず奥様に手渡します」
お父さんから貰った服を引き裂かれたり、ファーストジュエリーを目の前で壊されたことを思い出して、胸の奥が締めつけられる。泣いちゃだめ。泣いたら、奥様の神経を逆撫でしてしまう……。
必死で涙をこらえ、膝の上を見つめていると、顎を掴まれ、強引に振り向かされた。エメラルドグリーンの長い爪が、顎の皮膚に食い込む。奥様の青い瞳が限界まで細められていた。
「人の話を聞く時は、ちゃんと目を見なさいって教わらなかったの?」
「もっ、申し訳ありません……」
「泣こうとしていたのね?」
「いいえ。奥様の苦しみに比べたら、」
「その通りよ! あんたのせいで私の人生、めちゃくちゃになった!!」
耳元で怒鳴られ、もう一度平手打ちされる。耐えろ耐えろ、大丈夫。久々だからかなりきつい。とっさに頬を押さえたら、手首を叩き落とされた。あ、頬を押さえちゃいけなかったのに、忘れてた……。今度は髪の毛をわし掴みにされ、激しく揺さぶられる。
「あんたの母親はとんだアバズレね! 分かってる!?」
「……おっ、奥様を傷付けて、申し訳ありませんでした」
「ドブネズミよりも汚い不倫女の子ども! 不倫女の子ども!!」
「ひっ」
「私がどれだけつらい思いをしてきたか分かる!? この期に及んで、私の息子まで……!!」
頬を長い爪で引っかかれた。あー、どうしよう。コンシーラーで隠せる傷だったらいいんだけど。治癒魔術、完璧に習得してないのに。次は拳が飛んできた。鈍い音がして、血が滴り落ちる。だめだ、車のシートが汚れちゃう。幸いにも血は全部、私の白いシャツワンピースに染みついていた。
頬の内側を炙るような熱のおかげで、痛みが麻痺してゆく。奥様が何事も無かったかのような表情で息を荒げ、座り直した。
「汚いわね。ちゃんとハンカチで拭きなさいよ」
「はい、奥様。汚いものを見せてしまい、申し訳ありません」
やった、バッグの中を堂々とあされる。奥様に背を向け、財布からクレジットカードと現金を抜き取って、ポケットの中へしまっておく。良かった、これで捨てられない。
先輩にアルバムを渡したし、大事なものは何も残ってない。こそこそ隠れてお金を移動させる予定だったけど、鼻血が出たおかげでスムーズに隠せた。ほっとした。黙って座り直し、ハンカチを鼻へ当てる。あっという間に血が染み込んでいった。
「今の職場、やめなさい。魔術師になるだなんて……。恥ずかしくないの? 私へのあてつけ?」
「いいえ、そんなことは」
「どうでもいいわ。とにかくも、やめなさい。今すぐやめるのなら見逃してあげる」
「……」
「返事は!?」
嫌だ、絶対にやめたくない。先輩に会えなくなっちゃう。奥様を激昂させるって分かってたけど、でも、恩返しがしたかったし、何よりもあの超絶美しい顔を毎日拝みたかった!! あーあ。先輩が連絡先を交換してくれたら、こんなことにはならなかったのに。
でも、魔術師になるのが夢だった。先輩と出会って、助けて貰って、憧れが抑えきれなくなった。私は一生、奥様の顔色を窺いながら生きていくの? 耐えられない。だから、必死に勉強して魔術師になった。奥様のことを考えないようにしながら。
「……申し訳ありません。いずれやめるかもしれませんが、あと数年は」
「逆らうつもりなの?」
「必ず、必ずやめます……!! ですから、もう少しだけ続けさせてください。お願いします」
「ああ、そう。母親がどうなってもいいのね?」
心臓をぎゅっとわし掴みにされた気分。お母さん、どうしよう。ごめん。でも、やめたくない。心臓の鼓動が速くなってきて、背筋が凍りつく。指一本動かせない。お母さんは何も悪くないから、巻き込みたくなかったのに……。
膝の上で拳を握りしめる。話せば、分かってくれるかもしれない。奥様の顔を真正面から見つめる。脂肪で埋もれた青い瞳に、私への憎悪をたぎらせていた。
「申し訳ありません。謝っても謝っても、許されないことをしたと思っています。ですが、母は何も知らなかったんです。既婚者だということも、すでにお子様がいることも」
「どうせ嘘に決まってる!! あの女、グルになって騙そうとして!」
「違います! 現に慰謝料が取れなかったでしょう? 奥様、正気に戻ってください! 母は不倫するつもりも、奥様から夫を奪い取るつもりも、」
「黙れぇーっ!! うるさい、黙れ黙れ黙れ、黙れ、黙れえええええっ!!」
だめだった。発狂して、私の髪の毛を引っ張り、バッグで何度も殴り始めた。高級な革のバッグだから痛い! 頭を抱え、座席に伏せて体を丸める。
数十年前、奥様は不倫され、正気を失った。いくら私や母が騙されていたんだ、既婚者だって知らなかったんだと説明しても、慰謝料から逃れるために嘘を吐いている、夫とグルになって私を騙そうとしているんだと言って、まったく信じてくれなかった。手の甲にバッグの金具が当たって、じんじんと痛み出す。
(分かる。私も浮気されたことがあるから分かるよ……。でも、いつまで耐えなきゃいけないの? いつまで、私は、不倫の末に生まれた子だって蔑まれなきゃいけないの?)
こういう時、私が不倫の末に生まれた子どもだと知って、いじめてきた同級生や友達のことを思い出す。何もしていないのに責められる。関係無いんだ。生まれが全てで、私の性格はどうでもいいんだ。何をしても、責められるような気がした。
先輩も、私が不倫の末に生まれた子どもだって知ったら、態度を変えるんだろうか。そうなった時、どうすればいいんだろう。明るく笑って流せる自信が無い。
黙って耐えていたら、髪を掴んで持ち上げられ、何度も殴られた。抵抗すれば、もっと酷い目に遭う。くちびるを噛みしめ、必死で体を丸める。しばらくの間、背中や顔を殴られ続けた。
「っは、はぁ、はあ……。やめるつもりはないのね!? お前の母親がどうなってもいいのね!?」
「許してください、もう! な、何でもするから、お願いですから、母だけは……」
「何でも? 本当に?」
「母にだけは絶対バレたくないんです。お願いします!」
私が学生の時から、奥様に暴力をふるわれていたと知ったら絶対悲しむ。隠し通したい。お母さんのせいじゃないんだよ。全部全部、お父さんが悪いんだよ。これ以上傷付いて欲しくないから、プライドも尊厳も投げ捨てて頼む。覚悟を決め、座席に頭を擦りつけた。
「本当に何でも言う通りにします! ですから、母には」
「運転手! 山へ行ってちょうだい」
山。気が遠くなった。殺されなきゃいいけど……。怯える運転手がハンドルを握りしめ、曲がりくねった山道を運転する。とっくに日は暮れていた。窓から見えるのは、暗闇の中でたたずむ雑木林だけ。さらに、大粒の雨が降ってくる。
バケツを引っくり返したような大雨が降る中、奥様がドアを開いて、私を後ろから蹴り飛ばした。心の準備をしておいて良かった! 濡れた地面の上で転がり、立ち上がった瞬間、顔面にバッグを叩きつけられる。私のバッグが足元へ落ちていった。
「財布は貰っておくわね。あと、メイクポーチも。いらないでしょ?」
「……母には何も、」
「しないわ。家から数十キロ離れている中、お金も無いのにどうやって帰るの? 死なないようにせいぜい頑張ってちょうだい。あんたが死んだら、母親に復讐してやるからね!」
「うっ!?」
最後、私の顔へ石をぶつけてきた。こめかみに当たって、血が流れ出す。嘘でしょ、当たっただけで血が出てきた……。いつの間に拾ったんだろう。このへんの石だよね!? ぶつけられた石を眺めていると、ドアが閉まり、車が元来た道を引き返してゆく。
(ここ、展望台かな? 雨が降ってくるなんて最悪)
柵の向こうに夜景が広がっていた。大雨で街並みに灯された光が滲んでいる。こんな時でなければ、綺麗だって思えたのになぁ。泥だらけのバッグを拾い、光に照らされた公衆トイレへ向かう。あまり体を濡らしたくない。
(あ、でも、不審者がいるかもしれないから近付かない方がいい? とりあえず、アーノルド様に連絡だ。ごめん!)
アーノルド様のファンに襲撃されたことにしよう。じゃないと、助けてくれないだろうし……。以前、アーノルド様から貰った魔術仕掛けのボタンがある。シャツワンピースに仕込んでおいて良かった! 引き千切れそうな勢いで、ボタンを強く引っ張ってみれば、ビーッ、ビーッと音が鳴り響き、赤い光が炸裂する。
「うわあああっ!? 眩しい! これ、私の目までやられるんだけど!?」
「あはは、ごめん、ごめん! 主は忙しいから、そっくりさんが迎えに来たよ~」
「えっ」
「わあ、酷い。血だらけだ」
「そんなに酷い!?」
「うん。まずは傘を出すね」
紺碧色の制服を着たアーノルド様にしか見えないそっくりさんが、ぽんと、巨大な黒い傘を出す。にっこり笑いつつ、傘の中に入れてくれた。お礼を言って、まずは身を寄せる。大きな傘だけど、激しい雨だから肩が濡れてしまいそうだった。
「酷い有様だ。殺してあげようか? 犯人」
「だっ、だだ大丈夫!! 大丈夫だから! すぐ殺すって言っちゃだめだよ。あ、人外者に言っても通じないか……」
「ならいいけど。わーお、トラ男、すっごく怒りそう。そっくりさんがちょっとキスしただけで怒ってたのに」
「言わないで!! お願い!」
「うん? 主以外の命令なんて聞かないよ。さ、行こうか」
「ど、どこに?」
「どこってもちろん、アーノルドの家にだよ。今、シャワーを浴びてる最中なんだ」
「えっ」
アーノルド様の怜悧な美貌にいたずらっぽい笑みを浮かべ、私の腰に手を回す。そのとたん、ぐにゃりと視界が歪んだ。あ、酔いそう。世界ごと回転しているような感覚に陥って、意識を揉みくちゃにされたあと、硬い床へ放り投げ出された。着地に失敗して、思いっきり肘と膝を強打する。
「いたぁあいぃっ……!! 今日、こんなことばっかりでもう嫌! 痛い痛い!」
「大丈夫? まあ、生きてるのならいいよね?」
「あ、ありがとう。人外者は契約者以外に優しくしないのって、本当なんだね。いてて」
赤い絨毯の上で寝転がっていると、制服姿のレイラちゃんになったそっくりさんが話しかけてきた。逆さまになってる。黒い編み上げブーツを履いた足は天井付近に浮かんでいて、波打つ黒髪が垂れ下がっていた。手は後ろで組み、直立不動という言葉がぴったりな姿勢になってる。頭に血が集まって苦しくなりそうだけどなぁ。人外者だから気にならないのかも。
「比較的優しいよ? だって、他の人には話しかけないもん。フィオナは特別!」
「これで!? というか、不法侵入なんじゃ……」
「大丈夫、大丈夫! 主が迎えに行けって言ったんだよ。もうこんな時間だし」
「えー、嘘、迷惑かけちゃったなぁ。そっくりさん、ありがとうね。大雨の中、山を下りずに済んだよ」
「どういたしまして! いい子だねぇ」
体が泥にまみれている。白いシャツワンピースは泥と雨水を吸って、酷い有様になっていた。うわ~、絨毯汚しちゃってる。綺麗な赤い絨毯なのに、申し訳ないなぁ……。部屋の中は静まり返っていた。年季の入った格子窓を雨風が叩いている。赤みがかったブラウンの机の上には、タッセル付きのシェードランプが置いてあって、柔らかな光を放っていた。
(ここがアーノルド様の部屋? 意外……)
赤と金のストライプ柄で統一されたソファーと肘置きがついた椅子、上品な曲線を描いている猫脚のテーブル。カーテンは深いモスグリーンで、奥にある天蓋つきのベッドは何とも言えない、まろやかなグリーンのベッドカバーがきっちり掛けられていた。アーノルド様らしい。
でも、飴色のワードローブの扉は開けっ放しで、内側のフックに制服を吊るしていた。けっこう中身がぐちゃっとしていたから、親近感が湧く。見てみると、ソファーの上に白いシャツが脱ぎ捨てられてるし、生活感があって落ち着かない……。勝手に人の部屋に侵入してる気分だ。
「ねえ、着替えたいんだけど、さすがにだめだよね!? いつ戻ってくるの?」
「さあ~……。ん? 物音がする。そろそろ来るんじゃない?」
「えっ、心の準備が出来てないんだけど! 本当に知ってる? 私がいるって」
「うるさい。夜に騒ぐなよ」
「ぶぁっ!?」
真正面の扉から入ってくると思っていたのに、後ろから声をかけられた。振り返ってみると、そこには半裸のアーノルド様が突っ立っている。下はグレーのズボン。タオルで銀髪を拭きながら、鬱陶しそうな表情を浮かべつつ、近寄ってきた。あ、これ、無料で見ちゃだめなやつだ。ファンに知られたら殺される……。呆然として見上げる私の前に立ち、思いっきり顔をしかめた。
「想像以上にやられているな。大丈夫か? 骨は折れてないか?」
「い、一応、多分……? 変に痛むところはありません」
「こうなったら警察案件だ。明日、被害届を出してこい」
「はっ!? お、大げさですよ! 大丈夫ですから」
「集団でボコられたんだろ? まあいい。そっくりさん、レイラを起こしに行ってくれ。女物のパジャマと寝床が必要だ」
「分かった、行ってくるね」
「うわぁ~、申し訳ない……!!」
「疲れてなきゃ起きてるだろう。寝るにはまだ早い時間帯だから」
慰めてるつもりなのか、普段よりも声が優しかった。ど、どうしよう……。見ず知らずのアーノルド様ファンに襲われたことにして、助けて貰おうと思ってたんだけど。普段から迷惑かけられてるし。早めに嘘だって言った方がいいよね!? 腹をくくって、打ち明けようとしたら、扉が開きっぱなしのワードローブへ向かう。ああ、話しかけそびれた。
「とりあえず、シャワーを浴びてこい。俺のバスルームを使うのが嫌ならレイラの、」
「それぞれのバスルームがあるんですか!? いいなーっ」
「……この屋敷、築百年以上だから無駄に広いんだよ。大規模な改修をした時、それぞれの部屋と客間にバスルームをつけた」
「へー! でも、レイラちゃんのバスルームを汚したくないので、アーノルド様のバスルームを借りますね」
「俺にも気を使え! まったく」
腹立たしげに言いながらも、泥汚れを魔術で綺麗にしてくれた。おおっ、すごい。髪はまだ濡れてるけど。ほっとしたからか、急に手が震え始める。立ち上がれない。
奥様はもういないんだから、怖がる必要なんてないのに……。紺色のTシャツを着たアーノルド様が近付いてきて、床に膝を突く。先輩とはまた違う、輝きが強い銀色の瞳に見つめられる。
「大丈夫か? 怖かっただろ」
「あ、あの、実は……」
「レイラがパジャマを持ってきてくれる。シャワーを浴びている間、全部用意しておくから浴びてこい」
アーノルド様が思っていたよりも優しい手つきで、お姫様だっこしてくれた。こ、この人の中に優しさってあったんだ!? びっくりしすぎて、何も言えなくなる。自分のファンが暴行したと思ってるから、罪悪感を感じてるのかもしれない。
訂正しなきゃ、訂正! 嘘だって分かった瞬間、床の上に落とされるかもしれないけど……。私を抱えたアーノルド様が、白い石造りのバスルームへ入る。壁も床も真っ白だ。蛇口や戸棚の丸い取っ手、ドアノブは金色だった。鏡は大きな三面鏡で、後ろの棚に整然とふかふかのバスタオルが並べられている。
「好きに使え。レイラが使っているシャンプーが使いたいのなら、」
「あのですね! じ、実は……。怒らないで話を聞いて貰えますか!?」
「どうした? 話の内容によってはキレるぞ」
「えーっ!? 短気ってよく言われません?」
「おい。……そういうところ、エディとよく似ているなぁ」
アーノルド様がゆっくりと私を降ろし、溜め息を吐く。正直に言いたいけど、怒られたくない。嘘を吐かなきゃ良かった。でも、夜の山を一人で歩くのは怖いし……。黙って白い石床を見下ろしていたら、頭を掻く音がした。
「分かった、もういい。キレないから話してみろ」
「本当ですか!? やった!」
「現金なやつ……。で? どうしたんだ? 気になるから話してくれ」
「じ、実は襲撃されたというのは嘘で、知り合いに殴られただけなんですよ!」
「は?」
「ごっ、ごめんなさい!! 被害届、出したくないんです……。嘘を吐いて本当に本当に、ごめんなさい! 暗くて怖いし、一人で下山するのはちょっと無理かなって」
「いや、警察に行くべきだろ! どんな知り合いだ!? 一体」
お、怒ってない? 良かった……。アーノルド様が呆然として、口を開けている。他人からボコボコに殴られたって言うと、警察に連れて行かれそうだから、知り合いって言っておこうかな。上手い言い訳が思いつかないよ。
「どうしてそんな嘘を吐いてたんだ? 山? 一から説明してくれ」
「はい。えっと、まず、車に乗れと言われて、乗ったら殴られて、夜の展望台? に置き去りにされました。山の上で真っ暗だったんですよ! 魔術手帳を奪われているから、誰にも連絡できなかったし」
「は? 手帳まで盗られたのか……。そいつ、フィオナを殺す気満々だったな」
「い、いやいや、殺すつもりは」
「あっただろ! 絶対! 夜の山に女性を置き去りにするなんてありえねぇよ。感覚麻痺してないか? 酷い怪我をしてるくせに、平気そうな顔しやがって」
「そんなに酷い怪我じゃありませんよ……」
「ちゃんと見てみろ、鏡で! 酷い怪我だ」
アーノルド様が私の肩を掴み、目の前にある鏡を指差す。見た瞬間、ぎょっとした。こめかみに青紫色のアザが広がっている。アザの中心にぱっくり割れた切り傷があって、そこから血が流れ、頬を伝い、顎の先から滴り落ちている。これ、水じゃなかったんだ……。水だと思っていたのは血だった。
洗面台に手を置いて、鏡を見つめる。くちびるの端が切れて、赤く腫れ上がっていた。両頬も腫れ上がっていて、おまけに、真っ赤な手形が二つもついている。鼻の頭にも傷があって、べろんと皮膚がめくれていた。あれかな? 奥様に殴られた時、はめていた豪華な指輪の石が当たったから?
鼻血が出たせいで、顔の下半分が血塗れになってる。これだけでは終わらず、顔や首が引っ掻き傷だらけ。その傷もところどころ血が滲み、赤紫色になっていた。
「うわ~……。ごめんなさい。血で絨毯を汚しちゃって」
「どうでもいいに決まってるだろ!? そんなこと! さっきの発言は撤回する。お前はちっともエディに似ていない!」
「はあ。前から言ってるでしょ? 似てないって」
「明日、警察署へ行くぞ。お前の知人は頭がおかしい犯罪者だ」
「やっ、やめてください! 反省してるみたいだし、警察沙汰にするほどじゃ……」
「はあ!? そいつの反省に一体、何の価値がある!? こんなことをしでかすようなやつの反省も後悔も、無価値のゴミクズだ」
めちゃくちゃ怒ってる。まずい。被害届なんか出したら、お母さんが殴られる……。それに、お兄ちゃん達だって悲しむ。実の母親がこんなことをしてるって知ったら、傷付くし、何よりも結婚の妨げになる。お兄ちゃんの仕事に影響が出そうだし、何としてでも避けなきゃ。
「お願いします! 誰にも言わないでください、被害届も出したくありません!」
「……どうして嫌がる? 理由は?」
「り、理由はちょっと言えないんですけど、お願いします! 頼っちゃってすみません。ファンに襲われたと言ったら、助けてくれるかと思って嘘を吐いた私が、」
「嘘を吐かなくても、助けるに決まってるだろうが!! 何なんだ、さっきから。俺が怪我してるお前を見捨てるとでも?」
「優しさなんて、一切持ち合わせてなさそうな顔してるじゃないですか……」
「お前なぁ! 怪我してなかったらキレてたぞ。風邪を引くから、とりあえずシャワー浴びてこい」
私の背中をぐいぐい押したあと、バスルームから出て行こうとした。ちょうど、青いパジャマ姿のレイラちゃんが入ってきて、アーノルド様が立ち止まる。
「レイラ! 持って来てくれたか、ありがとう」
「どうしてここに? フィオナさんが今からシャワーを浴びるのに!?」
「誤解だ!! 覗こうとしたわけじゃねぇよ!」
「レイラちゃーんっ、久しぶり! ごめんね、いきなり夜にやって来て」
「大丈夫ですよ。って、うわ!? ひ、酷い怪我! どうして……?」
「あれ、そんなに酷い?」
「だから、さっきから言ってるだろ? 酷いって」
私に貸す予定のパジャマを持ったレイラちゃんが青ざめ、よろめいた。そっか、酷いんだ。前につけられた傷に比べると、ぜんぜん酷くないんだけどなぁ。大事なものを壊されたわけじゃないし、クレジットカードも奪われていない。大事な大事なアルバムを先輩に預けておいて良かった! ずたずたに引き裂かれなくてほっとした……。




