25.ヒューの絶望と真っ黒な奥様
フィオナを車で送り届けたあと、意を決して、姉ちゃんに電話する。くそ、もっと早くフィオナを起こしていれば……。いや、無駄か。後ろ手でドアの鍵を閉め、リビングへ向かう。夕方過ぎに帰ってくるかと思っていたのに。何度思い出しても腹立つ。優しそうな微笑み? とんでもない。フィオナは何も見えていない。
「もしもし?」
「あ~……もしもし? 今、帰ったところ」
「そう。ちゃんと送り届けた?」
「もちろん。言いたいことは山ほどあるが、とにかくも、余計な口出しをしないでくれ。頼むからさ」
「フィオナちゃん、良い子じゃないの。どうしてまだ付き合ってないの?」
「……言いたくない。こっちにも事情がある。というか、首を突っ込まないでくれって言ってるじゃん! 聞いてたか? 俺の話」
無駄だと分かっているが、頼んでしまう。あー、くそ! 最悪の気分だ。一向に仲が進展していないのに、姉ちゃんにバレておもちゃにされた。あーあ、断ればよかった。
少し考えれば分かることなのに、フィオナからの頼みを断りきれず、家に上げてしまった。フィオナはチビどもに夢中で話せなかったし……。唯一良かったことは、夫婦気分を味わえたことか。あの時がピークだった。
「今までの子よりも好きだわ、フィオナちゃん。あんた、微妙に女を見る目が無いんだから、フィオナちゃんにしておきなさいよ。すっごく良い子よ、あの子は」
「どうして言い切れるんだ? まあ、フィオナは確かに性格が良いけど……」
「決まってるじゃないの。私を見て、女神様って言ったからよ」
「……それだけで?」
「バカ、重要なの! いつか忘れちゃったけど、あんたの元カノ、私を見て卑屈になっていたじゃない。卑屈な女と結婚したら大変よ、ろくな目に遭わないから」
「はーあ」
「なに? その溜め息は。まだ若いのに、おじさんみたいな溜め息ついちゃって」
「誰のせいだと……」
カップボードの引き出しを開けて、ガラスコップを取る。水を注ごうと思い、蛇口に手をかざした瞬間、息が止まる。しまった、フィオナの写真、隠すのを忘れていたか……!! 膝から崩れ落ちそうになった。いや、待て、おそらくバレてはいない。多分大丈夫だ。
シンクに手を伸ばして、立ち上がる。フィオナのことだから、きっと、見たら顔を真っ赤にして問い詰めてくるだろう。よし、大丈夫だ。見つかってないはず。心臓が狂ったように脈打ってる。水を飲む気が失せ、ガラスコップを引き出しへ戻した。
「もしもし? いい度胸ね、私の話を無視するなんて」
「ごめん。……疲れてるんだ、無視したわけじゃない」
「特別に許してあげる。次はないからね? あんた、フィオナちゃんと旅行に行ってきなさい」
「はっ!?」
「ちょうど、カップル向けのホテルが新しくオープンしたばかりだから。知り合いがデザインしたのよ。子どもの面倒で大変だから、」
「待ってくれよ、勝手に話を進めないでくれ!!」
「私からのお礼ということで、宿泊チケットを渡しなさい」
話を聞く気が無いのか。でも、今に始まった話じゃない。頭痛がする。一年分の疲労がどっとやってきた。言い返す気力が湧かなくて、ソファーへ体を沈める。俺にどうしろと? 聞かれなくても、クソ姉貴が弾んだ声で答える。
「とっても素敵なホテルよ、屋上庭園まであるの。魔術仕掛けのね。本当に大したことしてないんだけど、向こうがお世話になったからと言って、二人分、宿泊チケットを送ってくれて……。ほら、私、子どもの世話で忙しいじゃない?」
「断られたら、一体どうするんだ」
「ふふっ、自信が無いのね、ヒュー。今まで散々、人間の女の子に拒絶されてきたから?」
「……」
「大丈夫よ、私に押し付けられたと言って渡せばいい。あの子、優しそうだし、押せばいけるんじゃない?」
「やめろ。無理強いするつもりはないから」
少し起き上がって、足を組む。やっと怖がられなくなったんだ。一時期、怖がられた時はどうしようかと思った。関係を壊したくない。旅行に誘うのはいくら何でも早すぎる。どう伝えれば丸く収まるのか、頭を悩ませている最中、容赦なくずけずけと言い放った。
「何かっこつけてるのよ! 紳士ぶった結果、今の関係で終わってるんでしょ? 向こうからすれば、ただの面倒見が良い先輩じゃないの」
「いや、俺は、フィオナにとって好みのタイプだから……」
「じゃあ、どうして付き合ってないの? 告白された?」
「……」
「現実逃避はやめなさい、ヒュー。あの子、さほど意識してないからね?」
「完全に意識されてないわけじゃ、」
「とにかくも! 脈があるかどうか確かめなさい。嫌がったら引く、まんざらでもなさそうな様子だったら積極的に誘う。それでいいでしょ?」
「だけどなぁ……」
ハードルが高い。下心があると思われたくない。さすがに部屋は別々だろうが、いや、でも、旅行なんて誘わない方がいいに決まってる。断ろうと思って息を吸い込んだ瞬間、早口で喋り出した。
「あんた、そろそろ三十歳だっけ? 早く身を固めちゃいなさいよ。親に孫を見せようっていう気概はないの? 大体、昔から人間の女の子ばっかり追いかけて、怖がらせて、落ち込んでたでしょ。さっさとフィオナちゃんを旅行にでも誘って、気持ちを確かめてみてもいいんじゃない?」
「……たまたま、困っていたのが人間の女子なだけで」
「そんなことはどうでもいいのよ! 大人しく獣人と付き合っていれば良かったのに。明るくて、可愛くて、あんたみたいな目つきが悪いチンピラと愛想よくニコニコ笑って喋ってくれる子なんて、他にいないわよ? ねえ、分かってる?」
「……」
「あんたって本当に奥手よね。少しは私を見習いなさいよ」
「はい」
こういう時は何も言わず、大人しく返事する方がいい。何を言っても無駄なんだ。姉ちゃんに見つかった時点で終わりなんだ……。俺への文句を黙って聞いていると、ようやく気が済んだのか、えらそうな声で命令してくる。
「じゃ、私が話をつけてあげるから。別のフロアの部屋がいい? それとも隣の部屋?」
「眺めはどうなんだ? そのホテル」
「かなり良いみたいだけど……。一応、遠くの方に海が見えるんですって」
「じゃあ、フィオナだけ高階層の部屋にしてくれ。金は俺が出すから」
フィオナの性格上、嫌なら女友達と行ってきてくれ、グレードが違う部屋だけどって伝えて、渡せば渋るだろう。自分だけ良い部屋に泊まるのは避けたい。でも、相手に気を使わせてしまうかもしれない。
常識がある友達なら、「フィオナへのお礼なんだし、良い部屋に泊まりなよ」と言うはず。言わなくてもいい。とにかく、フィオナはあれこれ悩むくせがあるから、グレードが違う部屋の宿泊チケットを二枚渡せば、思い悩むだろう。悩んでいる時に押せば、いけるか?
「いいわよ、別に。日頃のお礼に払ってあげる。グレードアップして貰うわね。それでいい?」
「ああ、俺は一番安い部屋で頼む。姉ちゃんの知り合いが携わってるんだろ? さぞかし豪華なんだろうな」
「浮かれるのが早い! どうでもいい男との旅行なんて絶対に嫌だからね? フィオナちゃんはまだ行くって言ってないでしょ、まったくもう」
「浮かれてはいない! 俺はただ、」
「あーら、さっきまでぐだぐだ言ってたのはどこの誰? 突然、部屋のランクなんか気にしちゃって……。大体、乗り気ならそう言いなさいよ。思春期の男の子じゃあるまいし、興味ありませんアピールなんてせずに、ありがとう、誘ってみるって素直に言えばいいでしょ? あんたは昔から変に気取ってばかりで」
その後、俺への文句が二十分ほど続いた。黙って寝ろよ。というか、下僕はどうした? 飲みにでも行ってんのか? 話をやんわり遮りつつ、聞いてみたら出張中だった。義兄さん、あんたがいないと俺に矛先が向くんだよ。あーあ……。
ようやく話が終わった。魔術手帳を閉じる。疲れ切ってソファーにもたれ、まぶたを閉じていると、手にした魔術手帳が震え出す。肩が飛び跳ねる。でも、軽やかな甘い音楽を耳にして、ほっとした。フィオナからだ。
「もしもし?」
「あっ、すみません! メッセージを送ったんですけど、見ていなかったからつい、かけちゃって……」
「フィオナならいつでも歓迎だ。どうした?」
「はい!? えっと、疲れてます?」
「かなり。さっきまで姉ちゃんの愚痴を聞いていた」
「お疲れ様です……。先輩にお礼がしたいんですけど、何をあげたらいいのか、ぜんぜん分からなくて! ステラちゃんに相談してみたところ、本人に直接聞けばいいって言うから」
「ステラに相談なんかするなよ」
「だって~!! 他に相談できる人いないし!」
よくやった、ステラ。あいつはたまに使える。姉ちゃんのおどろおどろしい文句を聞いた後、フィオナの声を聞くと癒されるなぁ……。半分寝ぼけつつ、フィオナが提案してきたプレゼントを却下する。そこまで高額なものはいらない。せっかくだ、少し探りを入れてみるか。
「……フィオナ。今日、俺の家を見て殺風景だと言ってたよな?」
「あ、はい。何もありませんよね! 家電は充実してたけど」
「キッチンに飾るのなら、何がいいと思う?」
「キッチン!? はっ、はいはい、キッチン、キッチンですか! えー、どうしよう。何がって、お花とか?」
微妙な反応だ。自分の写真が飾られているのを目撃していたら、動揺するはず。やっぱり、フィオナは気付いていない? これ以上、踏み込むのはやめておいた方がいいか。俺の心臓がもたない。溜め息を吐いて、考えを切り替える。
「じゃあ、何でもいい。どうしても気が済まないのなら、飾るものをくれ」
「……分かりました! 責任重大ですね」
「何を贈るつもりだ? 普通でいい、普通のもので」
「スタイリッシュでクールな先輩の部屋にぴったりな絵とか、オブジェとか? うーん、考えますね! 一応、買う前に聞いた方がいいでしょうか?」
「いや、フィオナが選んでくれたものなら何でもいい。くれぐれも、ステラのアドバイスに従って買うなよ」
「はっ、はい! 私のセンスにお任せで……!?」
「期待してる」
「うわーっ、頑張ります!!」
何でもいいんだけどな、本当に。フィオナのことだから、張りきって選びそうだ。もう少し話したかったが、聞きたいことが聞けて満足したようで、すぐ電話を切られた。話したくない相手との電話は長引き、話したい相手との電話はすぐに切られる。
シャワーを浴びて寝よう。いつになく落ち込むのは、きっと、疲れているせいだ……。その日は悪夢を見た。フィオナが近所にあるカフェの爽やかなイケメン店員と付き合い、微笑み合う二人を見て、姉ちゃんが不満そうにぐちぐち言う夢だ。分かってるよ、言われなくても。そろそろ告白した方がいいって、分かってるから。
「おはようございます、先輩! あんな遠いところからわざわざ……」
「そこまで離れてないだろ。おはよう、フィオナ」
朝、フィオナが住んでいるアパートまで迎えに行く。白いシャツワンピース姿のフィオナが首を傾げつつ、階段を降りて、目の前に立った。姉ちゃんの顔を見たあとだから、余計、眩しく見えるなぁ……。澄んだグリーンの瞳が嬉しそうに輝き、伏せられる。
「申し訳ないけど、朝から先輩に会えて嬉しいです」
「……よし、手を繋いで歩くか」
「えーっ、職場から離れてるのに!? 大丈夫でしょ、恋人のふりなんかしなくても」
「分からないぞ。フィオナの私生活を見張ってるやつがいるかもしれん」
「いませんよ、そんな人!」
早起きして迎えにきた甲斐があった。疲れているせいで、普段よりもフィオナの言葉が胸に刺さる。どうでもいい男にあんなこと言わないだろ。適当なことを言いやがって、クソ姉貴。……おそらく、旅行に誘ったら頷いてくれるだろう。
緊張してきた。チケットが手元に無いのに、考えてどうする。チケットが届くまで数日あるはず。今、考えても無駄だ。上の空で返事していても、フィオナは一向に気にしない。表情をくるくると変えて、楽しそうに話している。
「先輩の家はモデルルームみたいだから、いっそのこと、可愛い動物が草を食んでいる絵でもいいかもしれませんね! 先輩は動物の中で何が一番好きですか?」
「考えたことない。鳥……?」
「鳥! やっぱり、私がヒヨコちゃんだから!?」
「何を言ってるんだ。フィオナは人間だろ」
たまにおかしなことを言い出すから、フィオナと話すのは楽しい。人と話すのはあまり好きじゃないが、フィオナとは長く話せる。仕事の尻拭いをするのも苦じゃない。
今日もフィオナはやらかして、依頼人や無関係の通行人に怒鳴られ、しょげていた。もちろん、睨み返して黙らせたものの、失敗した事実がつらいようで落ち込んでいる。カフェの白いテーブルへ突っ伏し、弱々しい溜め息を吐いた。
「あーあ……。どうして上手くいかなかったんだろう、おかしいなぁ」
「新技を試すからだ。使い慣れた魔術の方がいい」
「ですよね! ちょっとずつ、上達してきたんですけど」
「俺達は幼少期から魔術を扱っている。フィオナはよくやってるよ」
あのおっさん、裏路地にでも連れ込んで、ぶん殴ってやれば良かった。歩道がちょっと隆起したぐらいで、がたがた騒ぐなよ。怪我したわけじゃないくせに、フィオナを怒鳴りつけやがって。頭の中でおっさんをぶん殴っていると、フィオナが気弱そうな微笑みを浮かべ、ストローでアイスティーをかき混ぜる。
「ありがとうございます……。最近、服の汚れを落とせるようになってきたんですよ! 家事向けの魔術って本当に便利ですよね」
「ああ。使いこなせるようになると楽しいぞ」
「ですよね。早く魔術で片付けられるようになりた~い、ちまちま片付けたくな~い!」
「……俺が片付けてやろうか?」
「嫌です。散らかった部屋を見せるぐらいなら死ぬ!!」
「おおげさな。まあ、嫌ならいいけど、別に」
一度でもいいから、フィオナの部屋にちゃんと招かれて入りたい。酔っ払って眠ったフィオナを抱えて、入ったことはあるものの……。そういや、夜、アパートの前まで送っても「良かったら、お茶でも飲んで行きませんか」と誘われたことが一度もない。
姉ちゃんが脈なし、ただの面倒見が良い先輩、意識されていないって言っていたことを思い出し、憂鬱な気分に陥る。いや、どうでもいい男にあんなこと言ったりしないだろ。落ち着け、惑わされるな。
「わー、珍しい! 速達だ。先輩、どなたからですか?」
「え? げっ、うわぁ、姉ちゃんからだ……」
眼前に浮かんでいるのは、金色に輝く封筒。今、最も見たくない名前が記されている。このタイミングで? ハードルが高すぎるだろう。しぶしぶ封筒へ手を伸ばして、受け取る。触った瞬間、金色の粉がまぶされた文字が浮かぶ。
────配達完了、ご本人が受け取りました。あー、気が滅入るなぁ。中から出てきたのは予想通り、ネオンブルーに染まった宿泊チケット。フィオナが目を輝かせ、身を乗り出した。
「何ですか!? それっ! いいな~!」
「……じゃあ、俺と行くか?」
「へっ?」
「ここから車で一時間半ほどの距離にあるホテル。知り合いが送ってきたけど、行く暇がないから、二人で行ってくればいいって姉ちゃんが昨日」
「昨日!? し、仕事が早い」
「もちろん、部屋は別々だ。グレードが違う客室を二つ取って貰った」
「どうしてグレードが違う部屋を……?」
「落ち着かないから。フィオナは眺めが良い部屋に泊まればいい。俺は一番安い部屋で十分なんだよ」
「えーっ、豪華なんですね。ちょっと見せてください!」
フィオナがチケットに載ってるホテルの外観写真を見つめ、黙り込んだ。ひやひやする。言え、言うんだ、今のうちに。俺と良かったら旅行に行こうって誘え。不思議なほど、舌が硬直して微動だにしない。
もう、フィオナが何か言うのを待った方がいいか。無理強いするのはよくない。沈黙に耐えきれず、コーヒーを飲む。フィオナの眉間にどんどんシワが寄っていった。心臓が痛み出して、嫌な汗が滲む。
「あーっ、ようやく思い出した! ここ、友達がハネムーンで泊まったホテルにそっくりなんですよ。系列のホテルなんですか?」
「いや、知らない……」
「ですよね~。わぁ、似てる! プールがあるといいんですけど。水着、何にしようかなぁ。ホテルにプールが無くても先輩と泳ぎたい!!」
「行く気満々なのか」
「はい! もしかして、これが私へのお礼ですか?」
「ああ、うん。姉ちゃんに土産、買って帰らなくちゃなぁ」
「お姉様ーっ! 私が選んでもいいでしょうか!?」
「任せる」
焦らせるなよ、フィオナ……!! 思い出そうとしていただけか。まぎらわしい表情しやがって。嫌なのかと思った。あー、心臓に悪い。帰ったら姉ちゃんに報告しないと。俺はフィオナにとって、どうでもいい男じゃなかった。ふいに窓の外を見てみれば、空が曇っていた。ところどころ、雲が嫌な黒さを帯びている。今夜は雨が降ってきそうだ。仕事が終わるまで、降らなきゃいいけど。
「へっへへー、旅行、楽しみですね! 前々から思っていたんですよ。先輩の水着姿をもう一度拝みたいって」
「真剣な表情で話すようなことか?」
「前回、ろくに見れなかったので先輩の筋肉をちゃんと見ます」
「……じっくり眺め回していただろ」
「物足りないんですよ!! ホテルにプールが無くても、近くのプールに行って泳ぎましょうね~。今年の夏、先輩の水着姿を二十回ぐらい見たいです」
「皮膚がふやけそうだ。そんなに泳ぎたくねぇよ」
俺の気も知らず、フィオナがにこにこ笑顔でサンドイッチを頬張る。本当に焦った……。しかめっ面でチケットを見るフィオナを思い出して、背筋が冷える。忘れよう。旅行のことだけ考えればいい。サイコロステーキを口の中へ突っ込み、咀嚼する。嫌な汗が背筋に残り続け、しばらくの間、消えなかった。
「うえぇぁ~、疲れた! 足が棒みたい、もう無理!」
「お疲れ。けっこう長引いたな……」
ストーカーの相手は疲れる。魔術師資格剥奪、実家へ連絡、ストーカーの職場に報告、被害者の女性にまつわる記憶を消去、死ぬほどあった被害女性の写真や盗んだゴミの処分(フィオナが半泣きで全部やった)、ストーカー野郎を警察へ連行。そのうえ、使った魔術と日時、犯人の奇行を書類にまとめ、部長に報告。
面倒臭くてしょうがなかった。定時を大幅に過ぎたせいで、とっぷり日が暮れている。夜のビジネス街に酔っ払いがあふれ返っていた。鬱陶しい。フィオナにぶつかりそうになるのを見て、毛が逆立つ。気付けば、フィオナの腕を掴み、引き寄せていた。
「わっ? だ、大丈夫ですよ、心配しなくても……。酔っ払いにぶつかられたりしませんから」
「今、危なかった」
「先輩って見た目によらず心配性ですよね~、ははっ」
「誰のせいだと思ってる。最初の頃、目を離した隙に轢かれかけていたのを、しっかり覚えているからな」
「あれは、メモを見返していたら車道に出ちゃっただけですよ……。轢かれかけていません!」
「振り返ったら、バディが轢かれそうになっていた俺の身にもなってくれ」
「手、手!? 今、繋がなくてもいいでしょ~……」
疲れているせいか、無理に振り解こうとしない。手を引かれて歩きつつ、眠たそうな顔をしている。歩きながら眠りそうだ。前みたいに、背負ってやりたくなった。フィオナの手を握りしめる。細くて柔らかい。
全力で握ったら、あっけなくヒビが入りそうな細さだった。尻尾がフィオナの腰を叩いていることに気付いて、舌打ちを堪え、尻尾を戻す。危ない、危ない。油断していると、尻尾がフィオナに引き寄せられてしまう。自分の耳が頭上で、ぱたぱたとせわしなく動き始める。
「フィオナ、大丈夫か? 飯食って帰ろうぜ」
「はい……。大丈夫です、腹筋を見たら回復します」
「ビジネス街のど真ん中で腹を出せって?」
「あっ、じゃあ、触るだけでいいです。我慢します」
「そこまで疲れてなさそうだな。良かった、良かった」
「いや、疲れてますよ~……!! 目の前に子トラちゃん達がいたら、肉球の匂いを嗅いだだけで眠っちゃうほど、疲れています」
「よく分からん例えだ」
フィオナは子ども好きなんだな。予想していたけど。半ば寝ぼけて、街灯へぶつかろうとしているフィオナの手を引っ張って、背負った方がいいのか、歩かせようか、本気で悩みつつ、駅前のロータリーを歩いていると、ふいにクラクションを鳴らされた。
(あ? ふらふら歩いているだけでクラクション鳴らすなよ。フィオナが驚いて転んだらどうする! お前のせいだぞ)
振り返った直後、真横にぴったりと黒い高級車が停まる。嫌な感じだ。フィオナの知り合いか? 後部座席の窓が下げられ、見るからに香水臭そうなババアが顔を出した。うわっ、臭い……。鼻がやられそうだ。薄暗い中でもはっきり分かるほどの厚化粧。
マスカラで塗り固められたどす黒いまつげ、切れ長の青い瞳を囲っている極太のアイラインに、年月が経った古い血を連想させる赤い口紅。肌は不気味なほど白かった。金髪をまとめているせいで、脂肪に埋もれた顎が目立つ。頬はだるんだるんで、太っているのに深いシワが刻まれていた。喋らなくても分かる、こいつは性格が悪い。
しかも、胸元が開いたコバルトブルーのワンピースを着ている。ああ、可哀相に。服が悲鳴を上げていることだろう。脂肪で埋もれた首元には、パールのネックレスが光っている。こいつ、金持ちか? まったくと言っていいほど、品の良さは無いが……。じろじろ眺める俺を無視して、ババアがにっこり微笑む。人身売買に手を染めている修道女のような微笑みだった。
「久しぶりねえ、フィオナちゃん。元気にしていた?」
「奥様……」
フィオナが消え入りそうな声で呟く。奥様? さぁっと青ざめたフィオナの体を支え、睨みつけてやる。ババアはフィオナ以外見えていないようで、気にせず、話を続けた。
「送っていってあげるわ、乗ってちょうだい」
「ですが……」
「私に何度も同じことを言わせるつもり? いいから、早く乗ってちょうだい」
クソ姉貴と同じ匂いがする。フィオナをこの車に乗せたくない。とっさに手を引っ張って、駅の方へ向かう。フィオナが嫌そうに身をねじり、踏ん張った。
「ま、待ってください! 私、帰ります……。あの、大丈夫ですから」
「知り合いなのか? あのババアと」
「ひっ、も、もう! だめですよ、そんなこと言っちゃ! これ、受け取ってください」
「フィオナ?」
急いで通勤バッグの中から、俺の写真が表紙になってるアルバムを手渡された。なんで? いつの間にこんなものを……。浜辺で散歩していた時の写真か。呆然とする俺の手にアルバムを押しつけて離れ、元気いっぱいの笑顔を浮かべる。無理しているのがすぐに分かった。
「返してくださいね、明日! お疲れ様でした」
「待て、飯を食いに行く約束は……」
「ごめんなさい、無理です。それじゃあ」
フィオナが疲れきった笑顔で手を振る。だめだ、行かせちゃいけない。あんな香水と化粧にまみれた意地悪ババアの車に乗るつもりか。一体、どういう知り合いなんだ? 親戚には見えない。手を伸ばして、フィオナの腕を掴む。驚いて振り返った。
「やめておけ。あれは誰だ?」
「……知り合いの方です。昔、お世話になって」
「俺と一緒に帰ろう。断りづらいのなら代わりに断る。だから」
「先輩、お疲れ様でした! じゃっ」
軽く突き飛ばされた。フィオナがそんな行動に出たのがショックで、動けなくなる。黒髪を揺らしながら走って、高級車へ乗り込む。あっという間に車の姿が見えなくなった。残されたのは、自分の写真が詰まったアルバムだけ。やけに重たく感じた。
(フィオナは笑顔で線引きをする。……本当に俺はフィオナにとって、どうでもよくない男か?)
あれは一体誰なんだ。どうして気に食わないババアを奥様と呼ぶ? 謎だらけだ。ステラに話を聞いてみたいところだが、絶対からかわれるだろうし、おそらくステラも知らない。ああ見えて、フィオナは秘密主義だ。俺に今、できることは帰って眠るだけ。
(あのクソババア!! 腹が立ってきた。フィオナに何かしたら、好きなだけぶん殴って記憶を消してやる! フィオナと過ごす貴重な時間を奪いやがって……)




