全殺前進
バトンを受け取り、スタートを切る。
前方を見れば、先頭集団は既に第一コーナーに差し掛かっている。距離にしておよそ八十メートル。追いつけるだろうか。
加速をしていくなかで身体を起こし、最初の走者を捉える。
一人目。
大きく腕を振り、足幅は適切に保ちトラックを駆ける。
二人目。
陸上競技とは反復練習の延長線上にあり、一発逆転などはあり得ない。中学の頃、部活の顧問が言っていた言葉を今更ながら思い出す。
三人目。
次に、感情を殺す。
バトンを受け取ったとき、後ろで人が倒れる音が聴こえた。それでも振り返ってはならない、憐れんでもいけない。余計な感情は走りの邪魔になる。
四人目。
人体が無呼吸で最大限の力を発揮できる時間は約四十秒。
陸上界で四○○M走が最も過酷だと言われる由縁でもある。
おこがましいと、自分でも感じる。なにせ俺は今、世界で闘う陸上選手と同じことをしようとしている。無理は承知の上だ。
五人目。
第一コーナーを抜け、クラスメイトの待機場所を過ぎ去る。声援をもらったようだが、風の音が五月蠅くてなんと言っていたかわからない。
しかし俺に応援は不要、リレーとはいえ、走るのは己自身。
昔兄が『孤独は人を強くする』と言っていた。俺の陸上は孤独だ。一人でトラックに立ち、一人で腕を振り、一人で脚を動かす。それはまるで機械のように。
六人目。
最後に、思考を殺す。
友愛、不要。交情、不要。
道理、不要。激昂、不要。
英知、不要。至誠、不要。
色恋、不要。
全ての感情と思考、己の全てを殺して前へと進む。
『二年C組菊地くんっ、六人抜きです。頑張ってくださいっ』
残る先頭集団は三人。
第二コーナーに入り、大外へと進路をずらして差しにかかる。
極力走る距離は短縮するべきだが、インコースに固まった先頭集団を抜くにはこれしかない。
気が遠くなっていく。息がしたいと身体が訴える、脳が酸素を求めている。
けれど、できない。しない、させない。
このリレーに勝利して、陽代美が笑う姿を、また見たいから。
七人目、八人目。
二人を躱し残るは一人。最後の直線でトップを走る選手の斜め後ろについて最後の力を振り絞る。
あと少し、あともう一押しで辿り着ける。
しかし、そこで、気づいてしまった。
唐突にゆっくりと流れる視界。前を走っていた選手のゼッケンには二年D組の文字。
そして、錯覚だろうか。
前を走る選手は、後ろを走る俺を横目で見て、ニヤリと笑った。
『今ゴールしましたっ。一位、二年D組っ。二位、二年C組っ』
やられた。
ゴールをしたあと、脱力して短く呼吸を再開する。
冬樹は俺のことを秘密兵器だとか言っていたが、陸上部にいたことを知っている相手なら意味はない。二年D組のアンカーは卓球部のエースでもあり、俺の親友。杉山卓だった。
「はあ……はあ……危なかったぁ、へえちゃん、マジで追い付いてくるんだもん」
ゴールをした後、肩で息をする卓が話しかけてきた。
俺も呼吸を整え、彼に問いかける。
「卓、もしかして俺が追いつくこと、わかっていたのか?」
「あったりまえじゃん。守邦陸上競技場、中学生の部で短距離三種目記録保持者のへえちゃんを警戒しないわけがないよ。どれだけ差が開いていても安心できないって」
「そんなの、もう二年以上昔の話だ」
完敗だな。
簡単な話、卓は最後の最後まで脚を残していた。そして自覚はないが、俺は力尽きていたのだろう。
無理があった。世界陸上の選手の真似事なんて、練習をしていなかった元陸上部ができることではない。四十秒以上、息を止めていた反動がかえってきて、今さら身体が脈打つのを感じる。
しかし、悪くない疲労感。久々に全力で走って、負けたにもかかわらず清々しさすらある。
最初は体育祭のリレーを走るのは嫌だった。
昔を思い出しそうで、昔に戻ってしまいそうで。心のどこかで陸上を辞めたことを後悔していたのかもしれない。しかし、今日で踏ん切りがついた。
俺は陸上に向ていない。はっきりとわかった。
そもそも思考を殺すなんて自分に言い聞かせておきながら、結局あれこれと考えたりしているあたり、集中していない証拠だ。
それに自分は孤独だとか、ぼっちだと気取っていても、俺はどこかで人を求めていた。陽代美からの頼みを聞いたり、学校唯一の友人であった卓との関わりを保っていたあたりぼっち失格だ。
「ねえ、へえちゃん」
「うん?」
「やっぱりさ、今からでも陸上に戻ったら? せっかくそんなに走れるんだから、もったいないよ」
「……それは、誰が決めることなんだ」
「え?」
「すまん、なんでもない」
少し、親友に向かって悪態をついてしまった。
運動ができるから、勉強ができるからといって、他人に人生を決められたくはない。
できのいい人間であれば、あらゆる助言を上手く自分に反映させたりするのだろうが、俺はどうもそのあたりが不得手のようだ。
二年生の列に戻れば、二年D組の生徒たちは喜び合い、アンカーでゴールテープを切った卓を歓迎していた。
そしてC組の列があった場所では、一人の男子が出迎えてくれた。
「菊地くん、ナイスファイト」
「ああ、うん。酒井くんも凄い独走だった。陽代美と馬場さんは?」
「馬場さんが陽代美さんを救護室に連れて行ったよ。でも、菊地くんがゴールをするまではここで見てた。陽代美さん、笑ってたよ」
「……そっか」
それはよかった。
酒井くんからの話を聞いてほっと胸を撫でおろす。あとは転倒した陽代美の怪我が大したことなければいいのだが、一抹の不安を抱えながらも、グラウンド内では三年生のリレーが終わり、守邦高校体育祭の全競技が終了した。
C組の待機場所に戻れば、クラスメイトたちからの歓迎を受ける。
そして俺に一人の男子が猛然と近寄ってきた。
「き、き、菊地殿ォ。某は感動しておりますぞぉ、まさか菊地殿は未来から来たターミネーターだったりするのでありますかァ」
「いや、違うけど」
近い、近いから岡部くん。唾が凄い勢いで飛んでくるから少しだけ離れて欲しい。
それからほどなくして待機場所には、リレーのメンバーだった馬場さんが戻ってきた。
「馬場さん、陽代美は?」
「うん、今は救護室で養護の先生に看てもらってる。私はもうすぐ閉会式だから戻れって言われちゃった」
「そっか……お疲れさま」
「いえいえ、ていうか菊池くんすんごい追い上げだったねえ。私なんてさスタートミスっちゃったもんなあ……ハルミィ慰めてえええええ」
「ぶあっ、どしたのババちゃんっ」
小柄の春宮に抱きつく馬場さんを見て、周囲にいたクラスメイトが笑い合う。その中には大秋の姿もあり、どうやら用事は済んだようだ。
そして閉会式のアナウンスがあり、グラウンド内で教師陣に指示された箇所へ移動をする生徒たち。
教頭が生徒たちや保護者、体育祭関係者に労いの言葉を並べ、いよいよ各クラスの順位発表となる。
最初は一年生の順位が発表され、隠されていた得点盤が披露されていき、所々で喜びの声が上がる。
それに続き、二年生の順位が公開される。
『二年生、一位……二年C組っ』
「いやっほうううううううううううううう」
喜びを爆発させるクラスメイトたち。
その後も二位の以降の順位が発表されていくと、上位の得点差はほぼ僅差だった
「あっぶねえ、キクちゃんが最後追い上げてなかったら負けてたじゃあん。どうよ、ヒーローになった感想は」
「え? それは、皆で掴んだ勝利でしょ」
「ハハッ、いいこと言うわあ。西尾なんかとは大違いだわ」
「おいっ、なんで俺がネタにされてんだよっ」
インタビューをするように話しかけてきた東に西尾が突っかかり、二年C組に笑いの渦が巻き起こる。
実際のところ嘘は言っていない。二位のD組とは僅か三得点差。もし、クラスの誰かが出場した競技で一つでも順位を落としていればC組の優勝はなかった。
隣にいる微妙な笑顔を浮かべたD組の生徒たちの中にいる親友の姿を見て、意地汚い考えが浮かぶ。
悪いな卓よ、勝負には負けたが試合には勝ったというやつだ。
「よくやったぞ、お前らあ。これで今月の飲み代はタダになったぞお」
「げええ、ヒナちゃん最悪ゥ。ウチらのこと賭けにしてたでしょ」
「ハッハッハ、許せ許せえ」
豪快に笑うクラス担任の雛形先生を女子たちが囲み再びクラスメイトたちは盛り上がる。
そんな光景を見て。俺は確信した。
陽代美の願いはクラスの皆が仲良くなること。断言してもいい、彼女の願いは叶った。
笑い合う生徒たちに隔たりはなく、不良のグループも、ギャルのグループ、大人しい生徒のグループも垣根なく喜び合う姿は、仲のいいクラスと言えるだろう。
しかし、その中に我らが女王様の姿はなかった。




