今の自分にできること
天気は快晴、しかし二年C組の雲行きは怪しくなっていた。
一○○M走決勝に出場したクラスメイトたちの成績が振るわない。春宮も最下位でゴールし、浮かない顔をしている。
仕方がない、陽代美のすぐそばにいて動揺するなというほうが無理がある。
二○○M走では我らがクラスのエース、酒井くんが貫禄の走りをみせ一位をもぎ取る。そして彼の活躍に続き、女子のほうでは江夏が二位になり高得点を叩き出すも、クラス内の士気はいまいち上がらない。
戻ってきた春宮と江夏が陽代美の傍まできて心配そうな顔をする。寝ている陽代美は笑顔で応えるが、あまり調子がよくないように思える。
アイスパックを押さえる係を春宮と交代して、立ち上がり背筋を伸ばす。
陽代美が足を挫いて、俺も動揺をしているのか、少しばかり気疲れしてしまったみたいだ。隣にいる江夏も同様で、疲れた表情を浮かべる。
「江夏、いい走りだった」
「そりゃどうも。できれば四○○M走も莉愛の代わりに走ってあげたかったんだけどね」
江夏の視線を追えば、グラウンド内では四○○M走決勝が行われている。
陽代美の代わりに走ったクラスメイトの女子は残念ながら最下位になったようだ。
「ねえ、キクっち。莉愛にアタシがしてあげられることってない? ジッとしてても落ち着かなくてさ」
「それなら陽代美の傍にいてやってくれ。俺は救護室にひとっ走りして新しい氷を貰ってくるから」
「いやいやおかしいって、アタシはもう出番がないんだから、キクっちはここで待機。氷ならアタシが貰ってくるから、リレーに出るキクっちは少しでも体力温存しといてよ」
「わ、わかった」
本当のことを言えば、少し走って身体を温めたほうがいいのだが、江夏にそう言われては仕方がない。新しい氷は江夏に任せ、俺はリレーに集中することにする。
濃ゆい金髪を揺らし江夏が走って救護室に向かうのを見送る。見た目で人を判断できない、ただの黒ギャルに見えた江夏からそう教えられたような気がした。
「菊地、少しいい?」
「どうしたんだ、冬樹」
「ここではちょっと……こっち来て」
冬樹に連れられて、C組の待機場所から少し離れた位置で彼女と向き合う。
神妙な面持ちの冬樹は、いつも人を小馬鹿にしていた態度とは打って変わり真剣そのものだ。
「莉愛の脚の状態は、正直なところどんな感じなの?」
「……あまり、いいとは言えないな。トラックを一周走るくらいなら、大丈夫だと、思うけど」
「そう……それなら、菊地。私からお願いがあるの」
「なんだ?」
「菊地はアンカーでしょ? もしも莉愛からバトンを受け取った時点で上位に入れそうになかったら、わざと最下位になって欲しいの」
「それは……どうしてだ?」
「所詮、これはただの体育祭よ。クラス別対抗リレーで最下位でゴールをするなんて、ある意味笑いのネタだわ。アンタの得意な変顔でもなんでもいいから、とにかく周りを笑わせながらゴールをして。そうすれば誰も莉愛のことを責めない。菊地が……クラスの笑い者にされて済む話になるのよ。でも心配しないで、必ず菊地のことは、私が守るから」
冬樹よ、あまりそういうことは口にするものではない。惚れてしまうではないか。
そして、思い出すのは中学時代の体育祭。
リレーで最下位になった人物はスキップをしたり、馬鹿げた行動を取りながらゴールをしたりしていた。当時、真面目しか取り柄のなかった俺は憤りもしたが、今にして思えばあのふざけた行動はクラスメイトを守るためだったのではないかと、勝手に解釈をする。
「わかった。陽代美のためならピエロにでもなってやるさ」
「……ええ、ありがとう」
「それと、一応確認しておくが。もしも勝てそうな場合は本気で走ってもいいんだな?」
「勿論よ。むしろ、できることならぶっちぎりの一位でゴールしなさい」
不敵に笑う冬樹に合わせ、笑みを浮かべようとするが、俺は表情筋が死んでいるらしく上手く笑えているかわからない。
クラスの待機場所に戻れば、陽代美が身体を起こしており、グラウンド内に視線を向けていた。江夏が貰ってきた新しいアイスパックを春宮が受け取り、陽代美の脚を冷やしている。
グラウンド内では団体競技である男子の棒倒しが行われており、俺たち紅組は苦戦をしているみたいだった。クラスメイトの東と西尾が奮闘する姿があるが、旗色はよろしくない。
「皆、大丈夫かな」
「……ああ、問題ないよ。陽代美、そろそろテーピングを巻きなおそう。きつめにするから痛かったら言ってくれ」
「うん、お願い」
得点盤は一○○M走決勝あたりから隠されており、現在のクラス順位はわからない。
後になってのお楽しみのようだが、勝とうが、負けようが正直なところどうでもいい。しかし陽代美はクラスの順位を気にしているようだった。
陽代美の細くて白い足を預かり、再びテープを巻きなおす。
これまで、二年C組の皆が仲良くなるために、この細い足でどれだけ踏ん張ってきたのだろうか。そして今も、脚を挫いておきながらクラスの皆を心配している我らが女王様。
困ったものだと思いつつテーピングを巻き終える。
男子の団体競技である棒倒しは紅組の敗北。現在行われている女子の団体競技の大玉転がしも僅差ながら敗北。正確な点数はわからないが、学年別順位は拮抗していると思われる。
陽代美が立ち上がるのに手を貸し、最終種目であるクラス別対抗リレーの選手に招集がかかる。
「脚は、問題なさそうか?」
「うん、キクのおかげで走れそう。行こう」
体操着の長袖を脱いだ陽代美の号令のもと、集まっていたリレーのメンバーと顔を見合わせ入場門へ向かう。
リレーに参加する百人以上いる各クラスの代表者たちは興に乗じているらしく、至る所で円陣を組んだりしている。
教師陣が点呼を取る中、俺たち二年C組も円陣を組む。
「うわわっ、なんだか緊張してきたぁ。試合の時より緊張してるかも」
「大丈夫だよ、馬場さん。一緒に頑張ろうね」
バスケ部の馬場さんの肩に手を当て、いつもと変わらない落ち着いた我らが女王様。脚を怪我しているにも関わらず、人の心配をしている姿に敬服する。
「菊地くん、頼んだよ」
「……うん」
サッカー部の酒井くんと拳を重ねて、円陣を解く。
言葉はいらない。あとは、今の自分にできることをするまでだ。
点呼が終わり、いよいよクラス別対抗リレーの出場者がグラウンド内に入場をしていく。
最初は一年生からリレーは始まり、トラックを左周りに駆けていき、場内は今日一番の声援に包まれる。
前に座る陽代美は、左脚を気にするように手を足首に当てている。リレーの練習と同じように気合いを入れたポニーテールの後ろ姿も、今では弱々しく見えた。
一年生のリレーが終わり、二年生の番となる。
第一走者の馬場さんへクラスの待機場所から大きな声援が送られる中で、彼女は審判からバトンを受け取り、緊張した面持ちで第三レーンに入る。そして、各クラスの代表十名がクラウチングスタートの構えを取り、一瞬の静寂があたりを支配する。
願わくば、先に走る二人が圧倒的な大差で第三走者の陽代美にバトンを渡してくれれば、彼女への負担が減ることに期待をする。
距離にして一マイル、この一六○○M走が無事に終わることをただ祈る。
『ヨーイっ……パァンっ』
出遅れた。
馬場さんは脚を滑らせ、スタート位置の違う第二レーンの走者と肩を並べて第一コーナーへ突入する。だが、中盤以降に馬場さんは走りに伸びをみせ、他の走者とほぼ同時に第二走者へとバトンがつながれる。
第二走者からはレーンを少し走ってオープンコース、俺の位置から見ても男女が入り混じる第二走者たちは腕や身体がぶつかり合っている。しかし、第一コーナーを過ぎたあたりで集団を抜けた酒井くんがトップに躍り出る。
そこでスタート位置では、審判による第三走者の整理が行われ、陽代美がインコースに配置される。第二コーナーをまわる酒井くんを見れば、二位とは二十メートルほどの差をつくり独走状態だ。
いける。
このままなら陽代美が本気で走る必要もない。だというのに、我らが女王様の瞳には闘志の炎が揺らいでいるように見えた。
第二走者から第三走者へバトンがつながれる。
飛び出した陽代美の姿に手加減なんて言葉は見当たらない。
独走状態を保ち、第一コーナーを抜け、トラックの半分に差し掛かった辺りで、俺もトラックに入り、インコースに陣取る。
あとは俺がバトンを受け取り、走りきれば体育祭も終わる。クラス順位の結果がどうなるかわからないが、それでもリレーが終われば陽代美を休ませることができる。前から思っていた、我らが女王様は働き過ぎなのだ。
「きゃああああっ」
馬場さんの悲鳴。
振りかえれば、第二コーナーの途中で、陽代美が転倒していた。
彼女が立ち上がろうとするあいだに、次々と後方からきた走者に抜かれ、あっという間に最下位になった。
こんな時、陸上競技が左回りで行われることを恨んだ。
陽代美が挫いた左足首は、トラックを周回する上で最も負担がかかる箇所だ。どうして俺は彼女に気をつけるよう言わなかったのか、唇を噛む。
もう充分だ、よくやったとクラスメイトたちも彼女を褒め称え、あとは俺が笑い者になればいい。
それなのに、どうして、どうして彼女はまた走り出すのか。
自分の視力がいいことを呪う。見てしまった。
立ち上がった陽代美は、綺麗になびく髪や顔や体操着に土埃を被りながらも突き進む。女王様という言葉とはかけ離れた姿に胸が痛む。
諦めていい、走らなくていい、棄権をしてもいい。
心の中で必死に彼女へ呼びかけても、当然我らが女王は止まらない。
そして、彼女の目元は、涙で濡れていた。
彼女の願いはクラスの皆が仲良くなること。
それは、既に達成された望みだと俺は思う。
だから、もう体育祭で一位を狙う必要なんてない。
第三走者から第四走者へバトンが渡りはじめ、スタートラインに俺一人が取り残される。
最後の直線を走る陽代美を見て、審判の方へ振り向けば首を横に振っている。バトンを受け取りに行ってはいけない、そう言いたいのだろう。ただの体育祭のくせに、心の中で愚痴る。
どうするべきか、考える。俺が、今できる最善の行動は何かと己に問う。
そして、頭の中に浮かんだ選択肢から一つを選び、実行に移す。
これから走るトラックの先を見て、一つ深呼吸をしてその場に跪く。
右手で地面を掴み、腕に体重を乗せ天高く尻をつき上げる。そして左手を大きく後方へ逸らし彼女を待つ。
不格好だと、笑いたければ笑うがいい。スターティングブロックもないこの態勢は滑稽に見えるだろう。
助走は不要。
彼女から最短でバトンを受け取るにはこれしかない。
そして、静かに時を待つ。
すまん、冬樹よ。お願いは聞いてやれそうにない。
陽代美の走る姿を見て、全身の血液が蒸発し体内から激熱が湧き上がる。いつ以来か、ここまで緊張と高揚が混同し、気が高まるのは。しかし、熱くなるのは厳禁だ。たとえこの身が燃え尽きようとも、必ずや遅れを取り戻すと己に誓い、呼吸を殺す。
我らが女王が、勝利をお望みとあらば。




