世故に長ける
「やあ、おはよう」
「おはようございますっ」
中間テストも終わり、朝の新聞配達に汗を流す。
重さこそたいしたことないものの、数十部ある新聞はどうしてもかさばるため動きづらい。しかし、配達が進めば肩掛けが軽くなっていき、自由に走れることに達成感を覚えるようになった。
先日運動場を走ったときも、以前と変わらず走れたのは新聞配達のおかげなのかもしれない、と考えつつ朝のバイトを終え帰宅する。
仮眠から目を覚まして朝食を一人で食べつつ、朝の報道番組を流し見る。
今日の天気は曇りのち雨、今日は念の為、傘を持って学校へ向かうことにする。
歯を磨き、準備を済ませて玄関に向かえば、いつものように飼い猫がごろごろと寝そべっている。
「バルバトス、今日は雨が降るってさ。兄ちゃんと留守番よろしくな」
「……ナァ」
猫に表情があるのかは知らないが、一瞬嫌そうな顔をしたバルバトス。
バルバトスを拾ってきたのは兄であり、名前を付けたのも兄だ。しかし、どうしてか家族の中では兄にだけなつかない不思議な猫である。
傘を持ち学校に向かえば、同じ灰色のブレザーを着て登校中の生徒たちは、皆一様に傘を持っている。
六月の初旬。梅雨にほど近い季節に体育祭をするのはどうかと思うが、学校行事の都合があるのだろう。そんなことを考えつつ教室へ入り、本日の授業が開始される。
各授業では、採点された中間テストが返ってきたりして、教室内は阿鼻叫喚に包まれる。
そんな中、俺はどの教科も赤点は回避しておりほっと一安心をする。もし赤点を取ろうものなら、守邦高校では中間考査が補習、期末考査では追試が義務付けられている。
バイトをしている俺にとっては、学校に居られる時間は限られているため、赤点は確実に回避したいところだ。
昼休み。購買で買ったパンを食べ終わり外を眺めれば、薄黒い雲が空を覆っている。
予報通り雨が降りそうだ。
「キク、ちょっといい?」
「うん、なにかあったの?」
珍しく陽代美が昼休みに声をかけてきた。
前の席に座った彼女は、眉を八の字に曲げて困った顔をしていた。
「実はね、今日体育委員の仕事で私が放課後残らなきゃいけないの」
「それって、うちのクラス体育委員の仕事じゃないの?」
「うん、それが体育委員の子が赤点を取って今日補習なんだって。それでクラス委員長の沙織と私が代わりに出るようにヒナちゃんに言われたんだけど、沙織は今日用事があるからキクに頼めって言われたの」
なるほど、と俺は相槌を打つ。
冬樹と俺は協力関係だ。こんな時、俺を小間使いしようとする愉快そうな冬樹の顔が目に浮かぶ。
「わかった。俺でよければ手伝うよ」
「ありがとう、それでね、キク……」
「うん?」
「最近ハルミィと昼休みによくお喋りしてるよね? どんな話をしているのかなって……」
そう言われても困る。
春宮とは特に身のない話ばかりで、どう答えていいのか。しかし、前に座る陽代美はこちらを窺うような顔をしている。そこで最近春宮と話した事柄を適当に答える。
「そうだな。兄弟の話とか、香水の話とか、中間テストの話とか。あとは春宮が鼻フェチの話とか」
「――ッ。ハルミィ、鼻フェチだったの?」
「ああ、春宮はどうやら鼻フェチらしい」
「そうだったんだ。ハルミィは鼻フェチだったんだ。そっかあ」
陽代美が驚いた顔をして何度も頷く。
それはつまり、春宮が仲の良かった友人にも明かせなかった事柄なのだろう。
きっと己のフェティシズムを他人に話すことが恥ずかしかったのかもしれない。しかし、俺も匂いフェチだ。気にする必要は無い。
そして今、目の前に座る陽代美からは春宮とは違い、気品ある香りが漂ってくる。流石は我らが女王様、身に着けている香水も上質な物を使っているのだろう。
そして陽代美と雑談をして昼休みが終わり、放課後になる。
陽代美に同行して会議室へ向かえば、複数の生徒たちが慌しくしている。
暫く事の成り行きを会議室の隅で見守っていると、体育委員長から申し渡された仕事は簡単な運搬の仕事だった。
「キク、重くない?」
「ああ、大丈夫。バイトで慣れてるから」
体育委員長から指示された仕事は、守邦高校の西棟の裏にある旧部室棟二階から、横断幕や小道具を運ぶ仕事だった。
埃を被っていた横断幕を俺が担ぎ、陽代美には小道具を担当してもらい、何度も旧部室棟とグラウンド脇にある体育倉庫を往復して運んでいく。
「これで全部かな」
「うん、ありがとう。あとは私だけでなんとかなると思うから」
「他になにか頼まれているのか?」
「うん、簡単な書類仕事。あとは私一人でもどうにかできるから、キクは先に帰っていいよ」
そう言われては仕方がない。
力仕事なら任せて欲しいところだが、頭脳労働では俺が役に立てるとは思えない。
会議室に向かう陽代美に別れを告げ、俺は教室に残していた荷物を持ち昇降口に向かう。
外を見れば、雨が降り始めていた。
そして体育館の方からは女子の元気な声と音楽が聴こえてくる。どうやら体育祭のダンスの練習をしているようだ。
今日はバイトもない為、用意していた傘を開き自宅へ帰ろうとしたところで後ろから声が掛かる。
「キクっちっ、ストップ、ストオオオオップ」
声のする方に振り返れば、昇降口の前で、肩で息をする江夏の姿があった。
彼女から言われた通り、立ち止まって昇降口に向かえばバツの悪そうな笑みを浮かべる黒ギャルの江夏。
「どうしたんだ、江夏」
「いやあ、アタシ傘忘れちゃってさ。よかったら入れてくんない?」
「傘忘れたのか? 今日は雨降るって予報だったのに」
「今日寝坊したんよ。だからお願い、バイトに濡れた状態で行きたくないんだよねえ」
「まあ、別にいいけど」
「へへっ、やりぃ。そんじゃお邪魔しまあす」
そう言いながら江夏は俺の傘の下に入ってくる。
隣に立った江夏からは、なんの香水の匂いかわからないが、雨の匂いに混じって南国を思わせるような柑橘系の強烈な匂いが鼻につく。
嫌いな匂いという訳ではないが、主張しすぎる香りに少し頭がクラクラする。
江夏を傘に入れ、校門を出て帰路につく。
「キクっちは学校でなんかしてたん? バイトまでの時間潰し?」
「いや、今日はバイトはないから体育祭の手伝いだ。江夏は?」
「アタシは補習。メンドイんよねえ、なんで赤点とったくらいで残されなきゃいけんの」
そう愚痴を溢されても仕方がない。
一応守邦高校も県立なのだし、入試で名前さえ書けば受かるような学校ではない。
「江夏、春宮から聞いたんだがテスト前に隠れてバイトをしてるって本当か?」
「ああ、うん。してるよ、だってお金欲しいし。試験前に休みになったところで勉強とかしたくないし」
「大丈夫なのか。学校にバレたら停学だろ?」
「大丈夫、大丈夫。アタシがバイトしてるとこ亜由の親戚がやってる居酒屋だから。試験前は裏方にしてもらってんの、教師が来てもバレないよん」
まさに守邦高校を代表するような不真面目生徒である。
しかし、こういった明るい人物が世の中を渡るのには優れていると俺は知っている。
「世故に長けるってやつだな」
「せっ、こ? なにそれ」
「江夏は世渡り上手だなってこと。この前、雛形先生の授業で習ったことわざだよ」
「アハハっ、全然覚えてないわ。ていうかさ、今この状況」
「うん?」
「相合傘ってやつじゃん? カップルに見られたりしてえ」
そう言いながら江夏は傘を持つ俺の腕に手を廻して絡みついてくる。
おい、やめろ。また香水の匂いが制服についてしまうではないか。
「江夏は、そういうの気にするタイプに見えないが」
「まあねん。一年の頃とか男とっかえひっかえしてたし、相合傘で喜んでいいのなんて中坊まででしょ」
「……遊んでるんだな」
「そりゃそうよ、人生遊んでなんぼだし。ていうかキクっち、腕取られても全然動じないね。割と硬派だったり?」
「からかわれているのがバレバレだからな」
「アハハッ、バレてましたかぁ」
ヘラヘラと笑う江夏に少しばかり呆れてしまう。
言いたいことは分かるが、遊びの金欲しさに赤点を取って、補習や追試で時間を浪費するのは本末転倒ではないだろうか。
俺もいい成績を残せている訳ではないので注意するつもりはないが、少し心配になる。
「そういやさ、キクっちって莉愛と付き合ってんの?」
「いや、付き合ってないけど」
「そうなん? んじゃ莉愛のこと狙ってたりする?」
「してない。パンケーキ屋でも話したけどただの友達だよ」
嘘はついていない。
確かに陽代美には他のクラスメイトとは違う感情を抱いているのは事実だ。しかしそれは、相談を持ち掛けられたり、彼女が尊敬できる女王様だったり、小学生の頃に知り合っていたからだと思う。
好きとか、愛しているとか、そういうことではない。
「ふうん、そっか。でも、一応友達のアタシから忠告ね。莉愛のこと泣かしたら、キクっちのことぶっ飛ばすから」
「いきなり怖いこと言うなよ、そんなつもりもないけど」
「マジマジ、つうかアタシってよりも亜由のほうがヤバいから。莉愛とかハルミィのこと妹みたいに可愛がってるし、怒らせないほうがいいよ、亜由のこと」
怖い、今ここにいない姉御が怖い。
泣かせるつもりなんて毛頭ないが、心にはとめておこう。
それにしてもギャル五人衆の仲間意識とでも言おうか、友人を大切にしようとする姿勢は素晴らしいものだ。
「友達想いなんだな、江夏も、大秋も」
「まあね、中学のときから信用できるのなんて友達くらいだし。――あ、キクっちここでいいや。ありがと、傘いれてくれて」
「江夏の家ってこの辺なのか?」
「うん、アタシが住んでるのそこのアパートの一階。今度遊びにきてもいいよ」
そう江夏が指し示したのは古ぼけた木造アパートの一階だった。
本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどの建築物だが、どうやらここに江夏は住んでいるらしい。
「じゃね、キクっち。また明日っ」
「ああ……また、明日」
雨の中、走っていく江夏を見送り呆然と立ち尽くす。
決して憐れむ訳ではないが、認識を改める必要があると感じる。
江夏は遊びのためにバイトでお金を稼ごうとしていた訳でないのかもしれない。もしかすると、なにか事情があるのかも、と考えたりするのは避けるべきだ。
俺と同じくバイトに精を出す江夏に、親近感を抱きつつ帰路につく。
江夏は言った。『信用できるのは友達くらい』。この言葉にどんな意味が含まれているのか想像もつかないが、彼女の考えは尊重するべきだ。
たとえ、中学の頃に友達だと思っていた人物たちから迫害された俺でも、そんな幻想のような考えに縋りたくなる時もある。そして、互いを友達だと言い切れる彼女たちを羨ましく思う。
どうやら、ギャル五人衆の絆は固いようだ。




