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第8話:眉山の夜景と積年の疑問

 車は緩やかなカーブを描く山道を登っていった。街の喧騒が徐々に遠ざかり、代わりに虫の声が車内に忍び込んでくる。やがて名方は、展望台の駐車場に車を滑り込ませた。


エンジンを切ると、辺りは急に静かになった。


「降りるか」


名方に促され、美藍は車を降りた。夜風が、火照った身体に心地よく吹きつける。展望台の柵に手をかけ、眼下を見下ろした瞬間、美藍は思わず息を呑んだ。


「わ……っ」


眼下に広がっていたのは、徳島市街の夜景だった。無数の街灯とネオンの光が川面に映り込み、その中を、遠くの演舞場から漏れる淡い光の帯が縫うように走っている。かすかに届く太鼓の音が、まるで街全体の鼓動のように響いていた。


「綺麗……。何度も見てるはずなのに、今日はなんか、違って見えます」


「そりゃそうだろう。今日の美藍ちゃんは、昨日までの美藍ちゃんとは違う一日を過ごしてる」


名方は柵にもたれかかりながら、煙草に火をつけた。紫煙が夜風に流れ、街の明かりの中に溶けていく。


「名方さん、さっき車の中で言いかけてたこと……。教えてくれませんか。三十年前、名方さんに何があったのか」


美藍は柵に肘をつき、名方の横顔を見つめた。


「……そんなに気になるか」


「気になりますよ、そりゃ。だって、こんな大事な古文書、赤の他人にほいほい託したりしないでしょう。名方さんが三十年も追いかけてる理由が、私にも関係あるかもしれないのに」


名方は少しの間、黙って夜景を見つめていた。街の灯りが、彼の目にちらちらと反射している。


「俺がまだ駆け出しの記者だった頃……。二十代の頃だ。美馬の山奥で、ある取材をしていた」


「取材……。それが、三木家に?」


「ああ。地方紙の駆け出しとして、忌部氏の伝承を追いかける地味な連載記事を書いていてな。そこで、当時の三木家の当主に取材を申し込んだんだ」


名方は煙草の煙を吐き出しながら、遠くを見るような目をした。


「取材自体はすぐに断られた。当主は俺を家に入れようともしなかったよ。だが、帰り際、たまたますれ違った当主の息子――といっても、もう五十代か六十代くらいだったが――その人が、こっそり声をかけてきたんだ。『本当のことを知りたいなら、これを見ろ』とな」


「まさか、それが……」


「そう。この古文書の写しの、最初のページだ。それ以来、俺はライフワークとしてこの謎を追い続けている」


美藍は言葉を失った。三十年という歳月の重みが、急に生々しく感じられた。


「その息子さんは、今……」


「行方が分からん。それきり、三木家とは連絡が取れなくなった」


名方の声には、隠しきれない苦さが滲んでいた。美藍はそれ以上、何も聞けなかった。


しばらくの間、二人は無言のまま夜景を眺めていた。遠くの演舞場からは、相変わらず祭り囃子が響いてくる。


「名方さん」


「ん?」


「私、正直まだ半分も信じられてないです。ユダヤがどうとか、聖櫃がどうとか……。荒唐無稽すぎて、頭がついていかない」


「それでいい。むしろ、簡単に信じてしまう方が危ういくらいだ」


「でも」と美藍は続けた。「教授があそこまで頑なに私の説を否定したこと、そして今、こうして得体の知れない誰かに追われていること。これだけは、紛れもない事実です。だから――」


美藍は拳をぎゅっと握りしめ、夜景に向かって宣言するように言った。


「だから私、最後まで見届けます。教授が何を隠してるのか。三木家に何が起きたのか。名方さんが三十年かけても辿り着けなかった真実を、一緒に探させてください」


名方は美藍の横顔をしばらく見つめていたが、やがて口元に小さな笑みを浮かべた。


「頼もしいこと言うようになったな、美藍ちゃんも」


「学部生の頃から知ってるくせに、今更ですか」


「はは、違いない」


名方は腕時計に目をやり、小さく肩をすくめた。


「もうこんな時間か。……さすがに、こんな夜更けに押しかけるのは、藍染工房の主人にも悪いな」


「そうですね……。もう日付も変わってますし」


「明日、改めて訪ねよう。少し古い知り合いでな、蒅(すくも)作りひと筋、五十年の職人だよ。俺が新人記者だった頃、取材でよく世話になった。今は息子に工房を譲って、悠々自適の隠居生活……のはずだったんだが」


名方はそう言うと、車のキーを取り出した。


「まあ、行ってみてのお楽しみだ」


二人は展望台を後にし、再び車に乗り込んだ。眼下に広がっていた徳島の夜景は、車が山道を下るにつれて、少しずつ木々の陰に隠れていく。


美藍は助手席の窓に頬杖をつきながら、遠ざかる街の灯りをじっと見つめていた。


(教授の隠してる秘密。名方さんの三十年越しの疑問。そして、明日会う藍染職人さん……)


パズルのピースが少しずつ集まっていくような感覚と、まだ何も見えていないもどかしさが、同時に胸の中で渦を巻いていた。


車は再び国道へと合流し、美藍の自宅がある方角へと、静かに走り出した。



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