第9話:今夜はここまで
眉山の展望台で、しばらく夜景を眺めていた名方が、不意にスマホを取り出して何かを確認した。
「……よし。どうやら、さっきの連中は撒けたようだな」
「え、本当ですか?」
「ああ。知り合いに頼んで、周辺の道を軽く見てもらってた。あのセダンらしき車は、もう市街地の方には見当たらないそうだ」
美藍はほっと胸を撫で下ろした。張り詰めていた気が緩んだ途端、どっと疲れが押し寄せてくる。時計を見ると、すでに午前一時を回っていた。
「名方さん、時間、もうこんなに……」
「ああ、悪かったな、付き合わせて。家に送るよ」
名方は煙草の吸い殻を携帯灰皿にしまいながら、柔らかく笑った。
「明日は藍染工房へ?」
「ああ。明日の昼にでも、案内するよ。今日はもう、色々ありすぎただろう。ゆっくり休め」
美藍は少し迷ったが、正直なところ、身体はとっくに限界に近かった。バイトの疲れ、教授とのやり取り、逃走劇――一日の中に起きたことが多すぎて、頭の中が飽和状態になっている。
「……分かりました。じゃあ、お言葉に甘えて」
二人は車に戻り、名方は美藍の自宅へ向けて車を走らせた。窓の外を流れる夜の街並みを眺めながら、美藍はふと、名方の足元に置かれた風呂敷包みに視線を落とした。
「その古文書、名方さんがずっと持っておくんですか?」
「ああ。念のため、俺が管理しておく方がいい。万が一ってこともあるからな」
「そう、ですよね……」
美藍は少し名残惜しい気もしたが、名方の言うことにも一理あると納得した。
やがて車は、見慣れた美藍の自宅の前に停まった。
「着いたぞ。今日はほんとに、色々巻き込んで悪かったな」
「いえ……。むしろ、私の方こそ、ありがとうございます。こんな面白いこと(?)に、巻き込んでもらって」
美藍は苦笑しながら、シートベルトを外した。
「明日は何時頃、迎えに来てもらえますか?」
「昼の一時にしよう。それまでゆっくり寝ておけ」
「はい。じゃあ、おやすみなさい、名方さん」
「おう、おやすみ」
美藍は車を降り、名方の車が走り去るのを見送った。静まり返った住宅街に、エンジン音が遠ざかっていく。
家の玄関の鍵を開けると、リビングの明かりが漏れていた。どうやら母が起きて待っていたらしい。
「……ただいま」
小さな声で呟くと、美藍はそっと家の中へ入っていった。長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。




