第10話:それぞれの夜
リビングに入ると、ソファに座ってテレビを眺めていた母が、美藍の姿に気づいて振り返った。
「おかえり。遅かったわね」
「うん……。ちょっと、色々あって」
美藍はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。母はテレビを消すと、心配そうに美藍の顔を覗き込んだ。
「顔、疲れてるわね。……あら、送ってもらったの? さっき、車の音がしてたけど」
「うん、名方さんに」
「名方さん? ああ、『豆八』の常連の、新聞記者の」
母はすぐに合点がいったように頷いた。名方は美藍が学部生の頃からの付き合いで、家族の間でも「美藍の面倒見のいいお兄さん」といった扱いですっかり顔なじみになっている。年に何度か、美藍が家に愚痴を持ち帰るたびに、その名前は自然と食卓に上っていた。
「あの人、今日も『豆八』にいたの? 相変わらず、美藍のこと気にかけてくれてるのね」
「うん、まあ……。今日はちょっと、色々あって」
「色々って?」
母がソファに座り直し、身を乗り出した。美藍は一瞬、言葉に詰まった。
(黒いセダンに追われて、逃走用のカーチェイスして、眉山で夜景見ながら三十年前の話聞いて……なんて、言えるわけないよね)
「えっと……。教授にプロット突き返された話は、もうしたよね」
「うん、聞いた。ボロボロにされたって」
「それで、名方さんに『豆八』でその愚痴聞いてもらってたら、色々話が盛り上がって。徳島の歴史とか、阿波おどりの由来とか、そういう話」
美藍は事実の一部だけを掬い取り、当たり障りのない形に整えて話した。噓ではないが、真実のすべてでもない。母を心配させたくない一心だった。
「それで、話が長引いちゃって、名方さんが眉山まで夜景見に連れて行ってくれたの。それで、こんな時間に」
「眉山まで? まあ、ロマンチックね」
「もう、そういうんじゃないから!」
美藍は思わず顔を赤くして否定した。母は面白がるように笑いながら、台所の方へ立ち上がった。
「まあでも、あの人には昔からお世話になってるものね。美藍が学部生の頃、『豆八』のバイト先で知り合って以来、ずっと。就職相談に乗ってもらったこともあったでしょう」
「うん……。あの時は本当に助かった」
美藍が学部三年で進路に悩んでいた頃、大学院進学か就職かで迷っていた美藍の背中を押してくれたのも、名方だった。地方紙の記者として、地域に根差した仕事の面白さを語ってくれた彼の言葉が、今の美藍の研究者志望の原点の一つになっている。
「その名方さんが、今日も励ましてくれたわけね」
「うん。……教授には否定されたけど、名方さんは『間違ってない』って言ってくれた」
美藍はそう言いながら、ふと今日一日の出来事を思い返した。教授の冷たい拒絶、里奈の思わせぶりな噂話、そして名方が語ってくれた三十年前の記憶。母には話せない部分の方が、はるかに多い。
母はコップに水を注ぎながら、美藍の方を振り返った。
「美藍。あなた、その四国説とやらに、そこまで入れ込む理由って、何なの?」
不意打ちのような質問に、美藍は少し戸惑った。
「……何でだろう。最初は、単純に面白いと思ったからなんだけど。史料を集めれば集めるほど、これは絶対に本当のことなんじゃないかって、確信が強くなっていくというか」
「そう」
「それに」と美藍は続けた。「教授があんなに頑なに否定するのも、逆に引っかかるんだよね。普通、学問的に間違ってると思うなら、間違ってる理由をちゃんと説明してくれるはずでしょ。なのに、教授は最初から聞く耳すら持たない。まるで――」
「まるで?」
「まるで、聞きたくない何かがあるみたいに」
美藍は自分の口から出た言葉に、自分ではっとした。今日一日で見聞きしたこと――教授の手袋、藍畑の写真、里奈から聞いた美馬・三好への調査の話――それらが、頭の中で再び像を結び始める。
母は水を運んできながら、少し考えるような顔をした。
「まあ、大学の先生方の世界のことは、母さんにはよく分からないけどね。……美藍が本当にやりたいことなら、母さんは応援するわよ」
「お母さん……」
「ただし、身体は大事にしなさい。今日みたいに夜遅くまで出歩くの、あんまり続けないでよ」
「はーい」
美藍は素直に頷いた。母の何気ない優しさが、今日一日の緊張と疲労を、少しずつ解きほぐしていくようだった。
「それで、明日も名方さんと出かけるの?」
「うん。昼から、藍染工房に案内してもらうことになってて」
「藍染工房? まあ、それも歴史の勉強の一環?」
「そんな感じ。ちょっと、気になる話を聞けるかもしれなくて」
母はそれ以上深くは追及せず、微笑みながらコップの水を一口飲んだ。
「分かった。じゃあ、明日も気を付けてね」
「うん、ありがとう」
美藍はソファから立ち上がり、大きく伸びをした。
「お風呂入って、もう寝るね」
「そうしなさい。おやすみ」
「おやすみ、お母さん」
美藍はリビングを後にし、階段を上がっていった。部屋に戻ると、机の上には昨夜まで散らかっていた資料の山がそのまま残っていた。教授に突き返されたプロットのファイルも、そこに置いたままだ。
美藍はファイルをそっと手に取り、しばらくその表紙を見つめていた。
「……絶対、証明してみせるんだから」
呟きながら、今日一日の出来事を頭の中で反芻する。教授の冷たい態度、里奈の思わせぶりな言葉、名方が語った三十年前の記憶、そして今、自分の手を離れて名方の元にある、あの古文書。
(三木家。忌部氏。ユダヤの暗号……。荒唐無稽だってわかってる。わかってるけど……)
窓の外では、まだ遠くから、阿波おどりの太鼓の音がかすかに聞こえていた。街全体が、まだ祭りの熱狂から覚めきっていないのだろう。
美藍はファイルを机に戻すと、風呂の支度をするために部屋を出た。湯船に浸かりながら、今日一日のことをもう一度、ゆっくりと反芻する。
(明日、藍染工房で何がわかるんだろう。善造さんっていう人、どんな人なんだろう)
長い風呂から上がり、部屋に戻った美藍は、電気を消してベッドに横になった。目を閉じると、今日一日の目まぐるしい出来事が、走馬灯のように瞼の裏に浮かんでは消えていく。
美藍が眠りに落ちた頃、階下の寝室では、みやこがスマホの画面を見つめていた。
画面には、単身赴任中の夫・正則とのLINEのやり取りが表示されている。
みやこ:「今日、美藍が名方さんと眉山まで行ってたみたい。教授にまた論文突き返されたらしくて、慰めてもらってたんだと思うけど……」
みやこ:「なんか、今日はいつもと様子が違ったのよね。四国説にこだわる理由を聞いたら、『教授が聞く耳すら持たないのが逆に引っかかる』みたいなこと言ってて」
しばらく既読がついたまま、返信が来るまでに間があった。やがて、画面に正則からのメッセージが表示される。
正則:「そうか。……とうとう、気づき始めたか」
みやこ:「え? どういうこと?」
正則:「いや、何でもない。美藍らしいなと思っただけだ」
みやこ:「もう、思わせぶりな言い方しないでよ。……でも確かに、あの子の勘の良さというか、こういう時の粘り強さは、あなたに似たのかもね」
正則:「かもな」
みやこ:「血は争えないわね」
そう返信を打ちながら、みやこはふと、自分の実家の古い記憶を思い出していた。子供の頃、祖母から「うちは、ちょっと変わった家系なんよ」と、まるで昔話でも聞かせるように言われたことがある。何が変わっているのか、具体的なことは何も教えてもらえなかった。ただ、法事の席で親戚たちが、時折、妙に神妙な顔で「三木さんとこ」だとか「教授さん」だとかいう言葉を交わしていたのを、子供心に覚えている。
(そういえば、うちも昔から、なんとなくそういう雰囲気があったっけ……)
みやこは小さく息を吐くと、スタンプが返ってきた画面を見つめた。正則の思わせぶりな態度は、今に始まったことではない。彼が布都の家に婿入りしてから二十数年、時々こうして、意味深な一言を漏らすことがあった。それをみやこは、いつも「気にしすぎ」だと笑い飛ばしてきた。
だが今夜だけは、その言葉が、いつもより少しだけ重く胸に残った。
(お父さんも、生きてたら何か知ってたのかな……)
すでに他界した父の顔を思い浮かべながら、みやこはスマホの画面を消した。そのまま、しばらく暗い天井を見つめる。
(まあ、考えすぎよね。美藍はただ、歴史オタクの血が騒いでるだけ)
そう結論づけると、みやこは小さくあくびをして、電気を消した。
一方その頃、単身赴任先の一室で、正則はスマホをテーブルに置くと、小さくため息をついた。
窓の外には、見慣れない土地の夜景が広がっている。粟飯原の家を出て、布都家に婿として入ってから、もう二十年以上が経つ。実家である粟飯原の家のことも、あの美馬の山あいの集落のことも、努めて考えないようにして生きてきたつもりだった。
だが、娘の美藍が、自分がかつてそうだったように吉野川流域の歴史に惹きつけられ、それも「四国こそが真実だ」という直感に突き動かされているという話を聞くたびに、正則の胸の奥には、言葉にできないざわめきが生まれる。
(あの子は、まだ何も知らない。粟飯原の家に、何が眠っているのかも……。それに、みやこの――布都の家に伝わる話も……)
正則はスマホの画面をもう一度点灯させ、みやことのトーク画面を見つめた。「血は争えないわね」という妻の何気ない一言が、彼の中では、笑い話では済まされない重みを持って響いていた。
自分が布都の家に婿入りした時、義父からやんわりと聞かされた話があった。「うちの家系は、代々どこか不思議な縁で、阿波の歴史と結びついているらしい」という、半分冗談めかした言葉。当時は気にも留めなかったその話が、今になって、粟飯原の実家に伝わる話と奇妙に重なって聞こえる。
しばらくの沈黙の後、正則は画面を閉じ、静かにベッドに横になった。遠い粟飯原の実家の記憶――子供の頃に一度だけ訪れた、藍畑に囲まれた古い家の風景と、婿入りした布都の家で義父から聞いた、あの思わせぶりな一言が、瞼の裏で交互に浮かんでは消えていった。
二階では、美藍がまだ何も知らないまま、深い眠りの中にいた。窓の外では、阿波おどりの熱狂に包まれた徳島の夜が、まだ静かに更けていく。長い長い、覚醒の一日が、ようやく幕を閉じようとしていた。




