第7話:逃走と深まる謎
「美藍ちゃん、走るぞ!」
名方に手を引かれるまま、美藍は『豆八』の暖簾を潜り抜け、阿波おどりの熱気渦巻く夜の路地へと飛び出した。
背後で、黒いスーツの男たちが低い声で何かを言い交わす気配がする。振り返る余裕もなく、美藍は名方に手を引かれるまま、人混みの中を駆け抜けた。
心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。周囲では相変わらず「ヤットサー! ヤットヤット!」という掛け声が響き、浴衣姿の観光客たちが呑気にスマホで写真を撮っている。その日常と、自分の置かれている異常事態とのギャップに、美藍の頭は追いつかない。
(何なの、これ……。ついさっきまで、鉄板でお好み焼き焼いてただけなのに……)
「な、名方さん、あの人たち一体……」
「詳しい話は後だ! とにかく今は距離を稼ぐぞ!」
演舞場から溢れ出す踊り子の連や観光客で埋め尽くされた大通りを、二人は縫うようにして進んだ。すれ違う踊り子の一人が、法被の裾を美藍の腕にかすらせていく。祭り囃子の音の隙間に、自分の荒い息遣いだけがやけに大きく聞こえた。
路地を二つ、三つと折れたところで、名方はポケットから車のキーを取り出した。目の前には、年季の入った軽自動車が一台、路肩に停まっている。
「乗れ! 俺の相棒だ、ボロいが足だけは速い!」
美藍は助手席に転がり込むようにして乗り込んだ。エンジンをかけると同時に、名方は勢いよくアクセルを踏み込む。軽自動車特有の甲高いエンジン音を響かせながら、車は夜の徳島市街を走り出した。
シートに背中を押し付けられながら、美藍はようやく詰めていた息を吐き出した。
「はぁ……はぁ……。名方さん、さっきのあの黒いセダンの人たち、何なんですか!? まさか、教授が差し向けたとか……!」
「可能性は高いだろうな。……いや、正直言って俺にも確証はない。ただ、この古文書が世に出ることを、都合悪く思う人間がいるのは間違いない」
バックミラーを覗き込みながら、名方は険しい表情で答えた。街灯の明かりが、その横顔に濃い影を落としている。
美藍は膝の上に置かれた風呂敷包みを、両手でぎゅっと抱きしめた。
「教授が……。いや、待ってください。冷静に考えたら変ですよ。教授にあんな組織立った動きができるほどのコネがあるようには見えないし……。もしかして教授じゃなくて、もっと別の――例えば宮内庁とか、あるいは……」
「今はそこまで考えなくていい。とにかく、今夜は安全な場所に身を隠すのが先決だ」
「三木家文書……。里奈が言ってた、教授が現地調査をやめたっていう場所も、確か美馬か三好のあたりって……」
「三木家か。……美藍ちゃん、その名前をどこで?」
名方の声色がわずかに変わった。ハンドルを握る手に、力がこもったのが分かる。
「同期の里奈が、ゼミの先輩から聞いた噂です。教授が若い頃、その辺りにフィールドワークに行ったきり、二度と現地調査をしなくなったって……。あ、三木と言えば! 徳島出身の三木武夫元首相のルーツも確かあの吉野川流域……旧御所村あたりですよね!? 昭和の激浪の中で『クリーン三木』って呼ばれて派閥政治に屈しなかったあの総理の血脈も、阿波忌部の影響下にある土地柄じゃないですか! 古代のアーク隠蔽といい、徳島って昔から『権力の裏で秘密を守る二重構造のDNA』でもあるんですか!?」
「おいおい、現代の総理大臣まで引っ張り出してくるな。オタク特有の連想ゲームが激しすぎるぞ。……だが美藍ちゃん、その勘はあながち間違っちゃいない。忌部教授は、あの一族と無関係じゃないんだ」
信号待ちで車を止めながら、名方は深くため息をついた。
「美藍ちゃん、これから話すことは、俺が三十年近くかけて追いかけてきた話だ。半分は事実、半分はまだ確証のない仮説だと思って聞いてくれ」
「三十年……! そんなに長く追ってる話なんですか!? ちょっと待ってください、名方さんっていつからこのネタ追ってるんですか。まだ駆け出しの記者の頃から? それとも、何かきっかけがあったとか?」
「……その話は、また今度な」
名方は苦笑まじりにはぐらかすと、再びアクセルを踏み込んだ。信号が青に変わり、車が走り出す。
美藍は納得のいかない顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。ただ、名方の横顔に浮かんだ一瞬の陰りだけは、しっかりと目に焼き付けていた。
(名方さんが三十年……。それって、名方さんが今の私と同じくらいの年齢の頃からってことだよね。一体、何があったんだろう)
車が国道に出た頃、美藍のスマホが、ポケットの中で震えた。画面を見ると、着信は「お母さん」だった。
(うわ、こんな時に……)
一瞬迷ったが、無視すればかえって心配をかけると思い、美藍は通話ボタンを押した。
「もしもし、お母さん? どうしたの、こんな時間に」
『美藍? まだバイト? いつ帰ってくるのか気になって。もう日付変わってるわよ』
「あ、うん……。ちょっとまだ、片付けとかあって遅くなりそう」
美藍は横目で名方を見ながら、努めて平静な声を作った。今、黒いセダンに追われて逃走中だとは、口が裂けても言えない。
『そう。あんまり無理しないでよ。教授とのこと、うまくいった?』
母の何気ない一言に、美藍の喉が詰まった。研究室での出来事を思い出すと、まだ胸の奥がずきりと痛む。
「……ううん、全然。ボロボロに突き返された」
『あら……。まあでも、今日ぐらいは羽伸ばしてきなさい。せっかくの阿波おどりなんだから』
「うん……。ありがとう、お母さん」
『気を付けて帰ってきなさいよ』
「うん、じゃあね」
通話を切ると、美藍はしばらくスマホの画面を見つめていた。ついさっきまで、母の声が響いていた画面の向こうと、今自分が置かれている状況とのあまりの落差に、笑いたいような、泣きたいような、複雑な気持ちが込み上げてくる。
「……大丈夫か、美藍ちゃん」
「大丈夫です。……なんか、変な感じで。お母さんは、今日私が黒塗りのセダンに追いかけられてるなんて、これっぽっちも思ってないんだろうなって」
「そりゃそうだろう。俺だって、こんな夜になるとは思ってなかったよ」
名方は苦笑しながら、ハンドルを軽く叩いた。
車は、国道からそれて眉山の方角へと近づいていく。標高わずか二百メートル余りのその山は、徳島市街を見下ろす、市民にとって馴染み深いシンボルだった。
「名方さん、眉山の方に向かってません? 藍染工房って、確か吉野川沿いはずじゃ……」
「ああ、少し遠回りだ。だが、このまま真っ直ぐ行くと、さっきの連中とまた鉢合わせる可能性がある。それに――」
名方はそこで一旦言葉を切ると、少しだけ表情を緩めた。
「今夜くらい、少しは息抜きしてもいいだろう。ロープウェイはもう終わってるが、車で登れる展望台がある。そこから、阿波おどりの街明かりを見下ろしながら、続きの話をしよう」
「……本気ですか。追われてる最中に、夜景デートみたいな真似して」
「デートとは人聞きが悪いな。まあ、少し頭を冷やすにはちょうどいい」
美藍は呆れたようにため息をつきながらも、心のどこかで、その提案に安堵している自分に気づいていた。




