第6話:豆天玉と隠された暗号
やがて運ばれてきたのは、徳島独特の「豆天玉」――生地の中に甘く煮た金時豆と小エビの天ぷらが入った、地元のソウルフードだった。
甘辛いソースの香りが立ち上る中、名方はコテで豆天玉を切り分けながら、ポツリと言った。
「美藍ちゃん。君の阿波東遷説は実に面白い。だがな、教授が隠しているのは単なる歴史の解釈どころじゃないのかもしれんぞ」
「……え?」
「例えば――この『豆天玉』だ」
名方はコテの先で、生地から覗く金時豆を指した。
「そうさ。小麦粉の生地に豆を混ぜ込んで焼くスタイルだ。美藍ちゃん、関西のお好み焼き文化のルーツを考えたことがあるか? 阿波から畿内へと食文化や物流が流出した際、なぜかこの『豆を入れる信仰』だけが綺麗に抜け落ちている」
名方は熱々の豆天玉を口に運び、満足そうに噛みしめてから言った。
「これはな、今も中東の地で広く食べられている、ひよこ豆を擂り潰して作る料理――フムスのDNAなんだよ。古代、大海を渡ってこの地に辿り着いた者たちが持ち込んだ食の記憶が、形を変えてこの徳島の鉄板の上に残っている」
「……は? え、待ってください名方さん。フムスって、イスラエルの国民食のあのアラブ系ペースト料理ですか!? いやいやいや! 豆天玉と日ユ同祖論を直結させるのはいくらなんでも飛躍が過ぎますって! 論文でそんなこと書いたら忌部教授に即ゴミ箱行きにされますよ!?」
美藍は目を丸くし、早口で手をぶんぶんと振った。
「はは、そう慌てるな。なら、外の音を聞いてごらん」
名方が窓の外を顎でしゃくった。店外からは、なおも熱気を帯びた「ヤットサー! ヤットヤット!」という掛け声と、大地を踏み鳴らす足音が響いている。
「阿波おどり……ですか?」
「そうだ。『ヤットサー』という掛け声、ヘブライ語でどういう意味になるか分かるか?」
美藍は一瞬言葉を詰まらせた。脳内の古代語データベースが高速で回転し始める。
「ヘブライ語の……『ヤ・アト・サー』……? 救い……神の救いが、やってくる……?」
「その通りだ。両手を天に高く掲げ、足を踏み鳴らして歓喜するあの独特の踊り。あれは、古代ユダヤの民が聖櫃――アークを迎えた際に捧げた歓喜の舞そのものなんだよ。この街全体が、一年に一度、自分たちのルーツを無意識に踊り明かしているのさ」
「アーク……聖櫃、ですか」
美藍が呟くと、名方は頷いた。
「そうだ。日本各地の祭りで担がれる神輿――あれも、元をたどればアークの構造がルーツなんじゃないかと、私は睨んでいる。金箔で覆われ、二本の担ぎ棒を通し、限られた者だけが担ぐことを許される。あの形式は、旧約聖書に記された、アークの運搬方法と瓜二つなんだ」
美藍の背筋に、ゾクリとした鳥肌が立った。
単なる都市伝説だと笑い飛ばすには、名方の瞳はあまりにも深く、真剣だった。ベテラン記者としての長年の取材と、この地に根付く民俗学の知識に裏打ちされた静かな熱量がそこにあった。
「名方さん……それ、本気で言ってます……?」
名方は答える代わりに、ヨレヨレのジャケットの内ポケットから、古びた風呂敷に包まれた一冊の冊子を取り出した。丁寧に紐解くと、中から現れたのは和紙に墨書された古文書の写しだった。文字は、美藍の見慣れた漢字とも仮名とも違う、奇妙な記号の羅列だった。
「こんな字……見たことない」
美藍が思わず呟くと、名方は静かに頷いた。
「おそらく、神代文字だ」
「神代文字……」
「これは、三木家の当主に取材した際、直接見せてもらった秘録の写しだ」
名方はそう言うと、写しの文字列を指でなぞった。
「専門家に見てもらったところによるとな……ここには、畿内へ移動した『朱』と、この地に残された『藍』の記録が、記されているそうだ」
「え、名方さんは、これ読めないんですか?」
美藍が尋ねると、名方は小さく肩をすくめた。
「私には、さっぱりだ。だから、専門家に頼ったのさ」
その言葉には、どこか含みのある響きがあったが、美藍はまだそれに気づく由もなかった。
「藍と……朱……?」
美藍は、その言葉の響きだけを、静かに反芻していた。
その時だった。
『豆八』の店舗前に、低いエンジン音を響かせて一台の黒い高級セダンが滑り込んできた。
スモークガラスで車内の様子は見えない。だが、街の喧騒を切り裂くような異様な圧迫感が、夜の路地裏を満たした。
セダンのドアが静かに開き、黒いスーツを着た男たちが降りてくる。
名方の表情が一瞬で険しくなった。古文書を素早く風呂敷に包み直すと、美藍の手を強く掴んで立ち上がった。
「美藍ちゃん、走るぞ!」
「ええっ!? ちょっと、名方さん!? お会計は!?」
「大将、ツケにしといてくれ! 逃げるぞ!」
阿波おどりの狂騒が渦巻く夜の街へ、二人は飛び出した。人混みに紛れながら、美藍はただ、名方の背中を追いかけることしかできなかった。




