第5話:熱狂の夜と助っ人
夕暮れの徳島市内は、すでに阿波おどりの熱気に包まれていた。通りには浴衣姿の観光客や、法被姿の踊り子たちが行き交い、遠くの演舞場からは大太鼓の音が地鳴りのように響いてくる。
「ヤットサー! ヤットヤット!」
演舞場の方角から聞こえてくる掛け声と鉦の音は、路地裏にまで容赦なく流れ込んでくる。美藍は人混みを縫うようにして、細い路地を駆け抜けた。
『豆八』の暖簾が見えてきた瞬間、店の中からもうもうと湯気と煙が立ち上っているのが分かった。
「大将! 助っ人来ました! って、うわっ、すご……っ!」
美藍が引き戸を開けた途端、飛び込んできたのは想像以上の喧騒だった。
「おお、美藍ちゃん! 助かった、ほんまに手が回らんのよ!」
厨房で汗だくになってコテを振るっていた大将が、救世主を見るような目で振り返る。店内は観光客と地元客で足の踏み場もないほどの超満員だった。大学院の修士論文の作業に追われ、最近はバイトのシフトを減らしてもらっていた美藍だったが、夕方過ぎに大将から悲鳴のような電話を受け、見かねて駆けつけたのだ。
「いいですよ、今日は徹底的に鉄板と向き合いますから! ほら大将、そっちの焼きそば焦げますよ!」
エプロンをきゅっと結び直すと、美藍の動きは一変した。注文をテキパキと捌き、テーブルを回り、空いたグラスを下げていく。活発で物怖じしない彼女の立ち回りは、混雑で殺気立ちかけていた店内の空気を一気に明るくほぐしていった。
先ほどまで教授の研究室で流した悔し涙も、里奈から聞いた気になる話も、目の前の忙しさに紛れて頭の隅に押しやられていく。コテを握り、鉄板と向き合っている間だけは、美藍は余計なことを考えずに済んだ。
「はい、豚玉お待たせしましたー!」
「こっちの焼きそば大盛りもうすぐです!」
汗だくになりながらも、美藍の声は店の隅々まで通るくらい元気だった。観光客らしき客が「お姉さん、手際いいね」と声をかけると、美藍は「ありがとうございます! 徳島来たらぜひ阿波おどりも見ていってくださいね!」と、営業スマイル全開で返す。
そんな喧騒が二時間ほど続いただろうか。日付が変わる頃になって、ようやく客足が落ち着き始めた。
「ふぃ~……っ! さすがに今日は疲れました……」
最後の客を見送ると、美藍は大きく伸びをして、カウンターに崩れ落ちるように腰掛けた。
「美藍ちゃん、ほんま今日は助かったわ。ありがとうな」
「いいんですよ、大将。私もちょうど良い気分転換になりましたし」
そう答えながらも、美藍の胸の奥には、まだ今日の悔しさがくすぶっていた。冷たいお茶を一気に呷り、ほう、と息をついたその時――ガラリと引き戸が開いた。
「やあ大将、美藍ちゃん。今日もお疲れさん。いやあ、今年もこの時期がやって来たな。徳島が一番盛り上がる夜だ」
ヨレヨレのスーツを着た、見慣れた男が入ってきた。地元紙『阿波時報』のベテラン文化部記者、名方剣 である。この店の長年の常連であり、美藍が学部生の頃からの、年の離れた友人でもあった。
「名方さん、遅いですよー! こっちは修羅場だったんですから!」
美藍はパイプ椅子を引っ張り出して名方の向かいに腰掛け、カウンターにバタンと額を押し付けた。
「……もうダメです。今日はバイトの忙しさより、心が折れました……」
「ん? どうした美藍ちゃん。論文の進捗でも悪いのか?」
名方が煙草の煙をくゆらせながら尋ねると、美藍はガバッと顔を上げた。その瞬間、彼女の瞳に怪しい光が宿る。
「進捗どころじゃないですよ! 今日、忌部教授に論文のプロットを提出したんです! 邪馬台国四国説、それも阿波こそが古代史の中心であり、畿内への東遷の原点であるという完璧な論理構造を組み上げて持っていったんですよ!? なのにあの鉄面皮教授、私の提出した資料を一瞥もせずに『妄言だ、学術的価値がない』って一蹴したんです! 意味が解らない! 纒向の出土品と吉野川流域の遺跡群の整合性、特に水銀朱の流通ルートを考えたら四国説以外あり得ないのに、あの人はあえて畿内説の盾になって私の説を徹底排除しようとしてるんです! 絶対に何か隠してる、あの本家の血筋の頭硬い化石教授――っ!」
一気にまくし立てる美藍の口からは、専門用語が入り交じった超高速のオタク口調が飛び出していた。先ほどまでの接客モードは完全に霧散している。
名方は苦笑しながら、冷えたビールを一口煽った。
「相変わらず忌部教授には手厳しいな。まあ座りなよ。大将、いつものを焼いてやってくれ。俺と美藍ちゃんの分」
「あいよ! 豆天玉ふたつね!」
大将が勢いよく鉄板に油を引く。




