第4話:喫茶店の予感
大学の正門を出ると、夕方の生ぬるい風が頬を撫でた。キャンパス内の並木道には熊蝉の声が響き、遠くの街並みからは相変わらず阿波おどりの練習らしき鉦の音が漂ってくる。
美藍はしばらく無言のまま歩いていたが、ふと足を止めた。正門の脇にある古い喫茶店――学生たちが「ボンジュール」と呼ぶ、昭和の趣を残した店の窓越しに、見覚えのある背中が見えた。
「里奈?」
窓際の席で文庫本を広げていた里奈が顔を上げ、美藍に気づくと軽く手を挙げた。ガラス越しに目が合うと、里奈は入り口を指差すような仕草をした。入ってきなさい、ということらしい。
美藍は少し迷ってから、喫茶店の扉を押した。カランと控えめなベルの音が鳴る。
「奇遇ね。まだ大学にいたの?」
「うん、次の講読ゼミの準備。美藍こそ、思ったより早かったじゃない」
里奈は文庫本を閉じ、向かいの席を手で示した。美藍は誘われるまま腰を下ろす。テーブルには、里奈が頼んだクリームソーダが、緑色のグラスにバニラアイスを浮かべて置かれていた。
「アイスティーで」と、通りかかった店員に美藍は告げた。
「さっきの話だけど」
美藍が切り出すと、里奈は少し困ったような顔をした。
「あー……やっぱりそこ、気になっちゃうよね」
「気にならないわけないでしょ。教授が昔、美馬か三好のあたりに調査に行ったきりって、どういうこと? 何かあったの?」
「本当に噂程度なのよ。前にゼミの先輩から聞いただけ。教授、院生の頃は結構フィールドワークに熱心だったらしいんだけど、ある時期からぱったり四国の現地調査をやめて、それ以降は文献研究一本になったって」
「……」
「まあ、フィールドワークに行かなくなった学者なんて珍しくもないし、単に体力的な理由かもしれないけどね」
運ばれてきたアイスティーのグラスに、美藍は口をつけないまま、指先でストローの包み紙を弄んでいた。
「里奈、変なこと聞いていい?」
「何よ、改まって」
「教授の左手の手袋……。里奈、何のためだと思う?」
里奈は少し首を傾げた。スプーンでクリームソーダのアイスをすくいながら、考え込むような顔をする。
「潔癖症とか、古書の保護とか、みんなそう言ってるけど……。美藍、まさかそんなことまで気にしてたの?」
「今日、初めて気づいたの。あの人が素手で紙に触ってるとこ、一度も見たことないなって」
「そう言われれば、確かに……」
里奈はしばらく考え込むように黙っていたが、やがて小さく肩をすくめた。
「深読みしすぎじゃない? まあ、美藍がそこまで引っかかるってことは、案外当たってるのかもね」
「里奈も、意外とそういうの嫌いじゃないでしょ」
「否定はしないけど」
里奈はふっと笑うと、腕時計にちらりと目をやった。
「あ、やば。わたしそろそろ行かなきゃ。今日中に読んでおかなきゃいけない文献があるのよ」
「あ、うん。付き合ってくれてありがとう」
「気にしないで。……美藍、今日はゆっくり休みなさいよ。悔しいのはわかるけど、根詰めすぎるとまた体壊すから」
里奈は伝票を手に取ると、レジへ向かいながら軽く手を振った。
「じゃあね」
カランとベルが鳴り、里奈の姿が夕暮れの通りへ消えていく。
一人残された美藍は、ようやくアイスティーに口をつけた。溶けかけた氷がグラスの中でカランと音を立てる。窓の外を眺めながら、頭の中では教授の言葉と、里奈から聞いた話が、ぐるぐると渦を巻いていた。
(手袋。藍畑の写真。剣山の方を見ていた視線。美馬か三好への調査を最後に、現地に行かなくなった教授……)
考えれば考えるほど、点と点が繋がりそうで繋がらない、もどかしい感覚だけが募っていく。
腕時計を見ると、時刻はすでに午後六時半を回っていた。美藍はハッと我に返り、慌ててグラスの中身を飲み干した。
「やば、大将に電話しなきゃ……!」
鞄からスマホを取り出すと、案の定、『豆八』の大将から着信が二件入っていた。美藍は急いで折り返す。
「もしもし、大将! ごめんなさい、今から――」
『美藍ちゃん! ちょうど良かった、頼む、今日だけでもいい、店手伝ってくれんか! 阿波おどりの初日でもう店中えらいことになっとって……!』
電話の向こうから、悲鳴のような大将の声と、鍋やフライパンがぶつかり合う喧騒が響いてくる。
「わ、分かりました、今すぐ向かいます!」
通話を切ると、美藍は伝票を掴んで席を立った。教授のこと、里奈から聞いた話、悔しさ――それらすべてを一旦頭の隅に押しやり、美藍は喫茶店を飛び出した。
夕暮れの徳島市内には、すでに阿波おどりの熱気が漂い始めていた。通りには浴衣姿の観光客や、法被を着た踊り子たちの姿がちらほらと見え始め、遠くの演舞場からは太鼓の音が地鳴りのように響いてくる。
美藍は人混みを縫うようにして、『豆八』へと続く路地を走り出した。
一年で最も熱狂に包まれる夜が、今まさに幕を開けようとしていた。




