第3話:里奈の忠告
誰もいない夕暮れの廊下で、美藍は一人立ち尽くし、抱えたファイルをギューッと胸に抱きしめた。目元から溢れ出そうになる涙を、必死で天井を見上げて押し戻す。
「負けない……。絶対に、私が証明してみせるんだから……!」
「――何をそんなに一人でブツブツ言ってるのよ、美藍」
不意に背後からかけられた声に、美藍はビクッと肩を震わせて振り返った。廊下の角から、同じ研究室に所属する同期の院生、佐伯里奈が呆れたような笑みを浮かべて歩いてきた。
里奈は熊本出身で、学部三年の時に「九州から見た邪馬台国論争」に興味を持ったことをきっかけに、わざわざ海を渡ってこの徳島文化大学の大学院に進学してきた変わり種だった。専門は畿内説寄りだが、地元・熊本の装飾古墳や肥後の豪族についての知見も豊富で、教授からの評価も高い、いわば「模範的な弟子」だった。
「里奈……。别に、何でもない」
「何でもなくはないでしょ、その顔。また教授にプロット突っ返された?」
図星を突かれ、美藍は言葉に詰まった。里奈は小さくため息をつくと、廊下の窓際に寄りかかった。
「美藍の四国説、面白いとは思うよ。個人的には。わたしも熊本にいた頃、地元の豪族が『大和に負けた側』みたいに扱われるのがずっと納得いかなくてさ。だから中央の通説に対抗する説を立てる気持ちは、正直よくわかる」
「里奈……」
「そういえばわたしも今、似たようなことやってるのよ。『坂本龍馬は本当に歴史の英雄か』っていう論文」
「……は? 里奈、それ大丈夫なの?」
「大丈夫って何が」
「いや、龍馬を否定する論文なんて、下手したら土佐の人たちに刺されるわよ……」
「あはは、失礼ね。否定してるわけじゃなくて、再評価っていうか。わたし的には、幕末の思想的な骨格を本当に作ったのは、肥後の横井小楠だと思ってるの。龍馬はその小楠の思想を借りて、うまく行動力と人脈で動かしただけっていうか」
「よ、横井小楠……。名前は聞いたことあるような、ないような……」
「でしょうね、知名度で言えば龍馬の百分の一もないもの。でも『船中八策』の原型になった考え方も、大政奉還の理念も、辿っていくと小楠に行き着くのよ。なのに教科書に載るのはいつも龍馬ばっかり。地元の熊本にいた頃から、ずっとそれが悔しくてね」
里奈は肩をすくめながら、どこか誇らしげに笑った。
「まあでも、その熱意はわかるけど……。里奈、それ絶対に高知で言っちゃダメだからね。特に、はりまや橋の近くとかで大声で言ったら、マジで大変なことになるわよ」
「わかってるわよ、さすがに。学会でだけこっそり主張する分には平和的でしょ」
「こっそりでも一波乱ありそうだけど……」
美藍は苦笑しながらも、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。里奈もまた、通説に一石を投じようとしている一人なのだと思うと、先ほどまでの重い気持ちが、わずかに軽くなった気がした。
「でもね」と里奈は続けた。「教授があそこまで頑なに畿内説を譲らないのは、単なる学問的な意地とは違う気がするの。よそから来たわたしだからこそ、逆に見えるものもあるっていうか」
「……どういうこと?」
「わたしも詳しくは知らないけど……。教授、若い頃に一度だけ、四国――というか、確か美馬か三好のあたりのフィールドワークに行ったきり、それ以降は一切、阿波の現地調査をしなくなったらしいの。よほど嫌な思い出でもあるのか、それとも……」
里奈はそこで言葉を切ると、意味深に美藍を見た。
「何か、触れられたくないものでもあるのか、ね。わたしみたいなよそ者には分からない、この土地の事情が」
美藍の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。先ほど研究室で覚えた違和感――手袋、藍畑の写真、そして窓の外を見つめていた教授の視線の先。それらの断片が、頭の中で音を立てて繋がっていくような感覚があった。
「里奈、それ、詳しく――」
「ごめん、わたしもそれ以上は知らないの。噂程度の話よ。……まあ、美藍がそんなに悔しがるくらいだから、今回のプロットもよっぽど自信があったんでしょ?」
「うん……。だからこそ、悔しい」
「その悔しさ、無駄にしないと良いね」
里奈はそう言うと、少しだけ柔らかい表情を見せた。よそ者だからこそ言える、どこか突き放したような、それでいて優しさの滲む言葉だった。
「じゃあね、頑張って」
里奈はひらひらと手を振ると、足早に廊下の向こうへと去っていった。
一人残された美藍は、しばらくその場に立ち尽くしていた。窓の外では、夕闇がすっかり街を覆い、遠くから阿波おどりの太鼓と三味線の音が、風に乗ってかすかに聞こえ始めている。
一年に一度、徳島の街が狂乱に包まれる夜が、すぐそこまで迫っていた。
美藍はファイルを抱え直すと、涙を拭って正面を向いた。
「絶対に、暴いてやるんだから……。教授が隠してる、何もかも」
その呟きは、遠い祭り囃子の音にかき消されるように、夕暮れの廊下に溶けていった。
大学の正門を出ると、夕方の生ぬるい風が頬を撫でた。キャンパス内の並木道には熊蝉の声が響き、遠くの街並みからは相変わらず阿波おどりの練習らしき鉦の音が漂ってくる――。




