第2話:鉄面皮の教授
翌日の夕暮れ時、徳島文化大学、文学部棟三階。
薄暗い廊下の突き当たりにある「日本古代史研究室」の重厚なオーク材の扉の前で、美藍は深呼吸をひとつ突いた。手に抱えたクリアファイルの中には、昨夜何度も読み返した修士論文のプロット原稿が収まっている。
「大丈夫……論理の整合性は完璧。纒向の出土品と吉野川流域の遺跡群の年代測定データの比較も、文献史学的な裏付けも全部詰めた。これなら……いくらあの鉄面皮教授でも、一言くらいは認めてくれるはず……っ!」
自分に言い聞かせるように呟くと、美藍は意を決して扉を二回叩いた。
「入れ」
中から聞こえてきたのは、冷たく乾いた声だった。
美藍が失礼しますと頭を下げて室内へ足を踏み入れると、部屋の中は天井まで届く本棚と積まれた古書の塔で埋め尽くされていた。独特の古い紙とインクの匂いが漂う中、部屋の奥の巨大な執務机に腰掛けていた人物が、眼鏡の奥の鋭い眼光をこちらへ向けた。
忌部聡教授。
古代史学会において「畿内説」の絶対的権威として君臨する重鎮であり、美藍の指導教授だ。六十代半ばとは思えぬ隙のない背筋の伸び方と、感情を一切削ぎ落とした鉄面皮から、学生たちの間では隠れて「化石教授」「鉄の処刑人」などと恐れられていた。
「布都か。約束の時間は十五分前だったが」
「あ、申し訳ありません! 史料室で吉野川流域の水銀朱に関する追加論文を探していたら、ついつい時間が……」
「言い訳は不要だ。時間は有限であり、研究者にとって最大の資源だ。それで、提出するプロットはそれか」
忌部教授は、美藍が抱えているファイルへと短く視線を送った。
美藍はその一瞬、教授の左手にふと目を留めた。いつも薄い革の手袋をはめている、その手だ。学内では「潔癖症だから」「古書の劣化を防ぐため」と噂されていたが、美藍はこれまで一度も、教授が素手で紙に触れる姿を見たことがなかった。それに、机の脇に置かれた古びた写真立て。そこに写っているのは、青々とした藍畑を背景に佇む着物姿の老人だった。教授はその写真について、これまで一言も語ったことがない。
「はい! 邪馬台国四国説――とりわけ阿波地域が古代日本の中心であり、のちに奈良盆地へ移転したという『阿波東遷説』を最新の考古学データから再検証した構成案です!」
美藍は身を乗り出し、机の上に恭しくファイルを差し出した。胸の奥で、歴史オタクとしての情熱がフツフツと湧き上がるのを抑えきれない。
「教授、聞いてください! 従来の畿内説では説明がつかない『纒向遺跡における四国系土器の異様な出土率』と『若杉山遺跡における水銀朱の爆発的な生産時期』の同期現象について、吉野川の舟運ルートを軸に完全に解明したんです! 卑弥呼の時代、政治と経済の真の中枢は阿波に存在し、畿内の巨大古墳群はその後に阿波の技術と宗教体系を移植して造られた……つまり、阿波こそがすべての原点なんです!」
一気にまくし立てる美藍の言葉に、忌部教授はピクリとも表情を変えなかった。
教授は無言のまま手袋をはめた手でファイルを開き、美藍が血の滲むような思いで書き上げたプロットの目次と概要に目を通し始めた。
カチ、カチと、壁掛け時計の針が刻む音だけが静かな部屋に響く。美藍は緊張のあまり、私服の裾を強く握りしめていた。ふと、部屋の隅の書棚に目をやると、古い神道関係の書物に混じって、一冊だけ場違いな装丁の本が挟まっているのに気づいた。背表紙には英語のタイトルが刻まれている。“The Lost Tribes and the Ark”――失われた部族と聖櫃。美藍はそれが何なのか深く考える余裕もなく、視線を戻した。
一分。あるいは二分。
永遠にも思える静寂の後、忌部教授は静かにファイルを閉じた。そして、美藍の目を真っ直ぐに見つめると、何一つ感情の籠もっていない声で言い放った。
「妄言だ。学術的価値は皆無と言わざるを得ない」
「――え?」
美藍の頭の中が真っ白になった。
「学術的価値がない……? ちょっと待ってください、教授! どこがですか!? 史料の引用手順も、遺跡の年代特定も最新の年輪年代学の成果に準拠しています! 単なる郷土史家のロマン主義とは違う、客観的な物証に基づいた――」
「言説の基礎が歪んでいると言っているのだ」
忌部教授は冷酷に言い捨てると、ファイルを美藍の方へ押し戻した。
「四国説などというものは、戦後のローカル主義が作り出した幻影に過ぎん。学会において、邪馬台国の畿内所在はすでに盤石の通説だ。纒向こそが初期ヤマト王権の始発点であり、地方からの出土品は単なる交易の痕跡。それを『東遷』などという飛躍したストーリーにすり替えるのは、研究ではなくただの空想小説だ」
「空想小説……っ!?」
美藍の語気が強まった。瞳に激しい怒りと悔しさの火が灯る。
「違います! 通説通説って、学会の先生方は纒向から出た大量の水銀朱がどこから運ばれたのか、都合よく目を背けているだけじゃないですか! 奈良には辰砂の大型採掘遺跡なんて存在しない! 若杉山という世界唯一の古代水銀朱採掘場を抱えていた阿波を無視して、どうして初期王権が成立するんですか!? 政治の都(奈良)の前に、魂と資源の故郷(阿波)があったと考えるのが当然の論理帰結でしょう!?」
「黙りなさい」
忌部教授の低く重い声が、部屋の空気を一瞬で凍りつかせた。
教授はゆっくりと立ち上がり、窓の外――夕闇に包まれつつある徳島市内の街並みを見下ろした。その後ろ姿を見て、美藍は一瞬、教授の視線の先が単なる街並みではなく、遥か遠くの山――霧に霞む剣山の稜線に向いているような錯覚を覚えた。
「論文とは、主観的な情熱を吐露する場ではない。再現性と妥当性、そして何より学会という共同体における共通言語の上に成り立つものだ。君がどれほど阿波に情熱を傾けようと、このプロットでは修士論文として受理することはできない。題材を『畿内王権における四国系土器の流通影響』程度に縮小・修正しなさい。さもなければ、君に単位を与えるわけにはいかない」
「教授……!」
美藍は唇を噛みしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
指導教授に逆らえば、大学院での研究生活が終わる。それは解っていた。だが、自分の目の前にある「真実のピース」を、学会の保身や通説という都合のために捻じ曲げることだけは、どうしても受け入れられなかった。
(絶対に何か隠してる……。この人は、私の説が間違っているから却下してるんじゃない。四国説が……阿波の真実が表に出ることを、意図的に潰そうとしてる……!)
鉄面皮の奥に潜む、冷たい拒絶の壁。
美藍は悔しさに打ち震えながら、机の上のファイルを強く引き寄せた。
「……失礼しました」
深く頭を下げることすらできず、美藍は研究室の扉を押し開けて逃げるように飛び出した。
背後で、パタンと重い扉が閉まる音が響く。




