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第1話:提出前夜

八月十二日、夜。


布都家の二階、美藍の部屋には、テーブルにも床にも所狭しと資料が積み上げられていた。吉野川流域の遺跡発掘報告書、県立図書館でコピーしてきた郷土史家の私家版論考、付箋だらけの『魏志倭人伝』の注釈本。パソコンの画面には、明日提出する修士論文プロットの最終稿が表示されている。


「よし……あとは目次の順番を整えるだけ……」


美藍は畳の上にあぐらをかき、印刷したばかりのプロットをクリアファイルへ一枚一枚丁寧に収めていった。ここ数ヶ月、寝る間も惜しんで積み上げてきた成果だ。纒向の出土品と若杉山の水銀朱、吉野川の舟運ルート――すべての証拠が、一本の線で繋がっている確信があった。


「これだけ揃えれば、さすがのあの人も無視できないはず……」


呟きながら、最後のページを見返す。忌部教授の顔を思い浮かべると、少しだけ胃の奥が重くなった。あの鉄面皮の教授が、素直に「面白い」と言ってくれるとは思っていない。それでも、せめて一度くらいは、まともに耳を傾けてほしかった。


その時、階下から声が響いた。


「美藍ー! ご飯よー!」


母の声だった。美藍は「はーい、今行くー!」と返事をしながらも、手元の資料から目が離せない。もう一度目次を見直し、水銀朱のデータの参照ページがずれていないかを確認する。


「……美藍、聞こえてる? 冷めちゃうわよ」


少し間を置いて、階段の下から再び声が飛んでくる。今度はさっきより少しだけ苛立ちが滲んでいた。美藍は慌ててクリアファイルを閉じ、机の端に大事に置いた。


「ごめーん、今行く! ちょっと明日の提出物揃えてて……」


パタパタと階段を下りながら、美藍の頭の中はまだ論文のことでいっぱいだった。ダイニングには、湯気の立つ味噌汁と焼き魚が並んでいる。母はテーブルを拭きながら、ちらりと美藍を見た。


「また論文? 根詰めすぎじゃないの、最近」


「大丈夫大丈夫、明日教授に見せる大事なやつだから」


「……教授って、あの畿内説の偉い先生でしょ。美藍がいっつも愚痴ってる」


「うん、その人。でも今回のは自信作だから。絶対、認めさせてみせる」


美藍は椅子に腰を下ろしながら、努めて明るく笑ってみせた。母はそれ以上何も言わず、小さくため息をついただけだった。テレビからは、翌日に迫った阿波おどりの特集ニュースが流れている。演舞場の準備の様子、観光客向けのインタビュー、街全体が浮き足立つ、あの独特の空気感。


「明日から阿波おどりかぁ……。美藍、バイトのシフトは大丈夫なの?」


「一応減らしてもらってるけど……大将、人手足りなかったら電話してくるかも」


「ほどほどにね。論文もお祭りも、体を壊してからじゃ遅いんだから」


「わかってるって」


軽く笑いながら箸を取ったものの、美藍の意識は半分、二階に置いてきたクリアファイルに向いたままだった。明日の午後、研究室の扉をノックする自分の姿を想像すると、緊張と期待とで、胸の奥がざわめいて仕方がなかった。


食事を終え、部屋に戻った美藍は、もう一度だけプロットを最初から読み返した。窓の外では、夏の夜風に乗って、近所の子どもたちが練習する阿波おどりの鉦の音が、控えめに響いている。


「大丈夫……。これだけ調べたんだから、絶対に大丈夫……」


自分に言い聞かせるようにそう呟くと、美藍はクリアファイルをきちんと鞄にしまい、電気を消してベッドに横になった。


明日、すべてが変わる。そんな予感めいたものが、まだこの時の美藍には、何もわかっていなかった。



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