第75話:藍と朱の約束
「教授、お父さん……『藍と朱の約束』の本当の意味が、私、分かった気がします」
美藍の声に、全員の視線が集まった。
「古くから徳島で育まれてきた藍染めの『藍』と、水銀朱の『朱』。この二つの色は、古代からこの地で重ねられてきた『誓い』の象徴だったんです」
美藍は言葉を選ぶように、ゆっくりと語り始めた。
「忌部の人々は藍を織り、三木の人々は麻と米を育て、阿波の自然を守り続けてきた。彼らが守ってきた『アーク』や『宝剣』の伝承は、物理的な箱や剣そのものを指しているんじゃない……。悲しい争いの道具にされないよう、渡来の記憶や祈りを『隠し通す』という固い約束のことだったんだと思います」
美藍の瞳には、迷いのない静かな強さが宿っていた。
「形ある宝を追い求める人たちには、この真実は決して見えない。だからこそ、先人たちはこの険しい剣山の宝蔵石の下に、そして私たちの血の中に、決して暴かれない『約束』として封印したんだと思います」
正則は感極まったように目を細め、教授は深く、深く頷いた。
「素晴らしい答えだ、美藍君」
教授の口元に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「君の言う通りだ。歴史とは箱の中に閉じ込められた遺物ではない。今を生きる私たちの胸の中に、受け継がれていくものなのだから」
夜の冷気が頬を撫でていく中、宝蔵石は星明かりを受けて、深く美しい陰影を描いていた。
かつて先人たちが交わした「約束」が、千年の時を超えて、美藍たちの心の中にたしかに届いた瞬間だった。
教授は、教団の男たちへと、静かに視線を移した。
「君たちも……少しは、美藍君を見習いたまえ」
男たちは、言葉もなく、教授を見つめ返した。
「ものではない。精神こそが、信仰の源なのだよ」
教授はそう言うと、剣山の稜線を、ゆっくりと見渡した。
「どうしても、何か形が欲しいのであれば――この剣山を、仰げばよいではないか」
美藍は、教授の言葉を受けて、ふと、自分の中に新たな考えが広がっていくのを感じた。
「教授、お父さん……もしかしたら」
「うん?」
「この人たちの考えている通り、ユダヤの人々が、本当にこの地に来たのかもしれません」
正則が、驚いたように娘を見つめた。
「でも、それは――」
美藍は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「支配をするというより、共存を選んだのではないかと、私は思うんです」
「共存……」
教授が、静かに繰り返した。
「彼らは、自分たちが知る知識や技術を、この地の人々に伝えた。そして、その見返りとして――」
美藍は、宝蔵石を見上げながら、静かに続けた。
「技術の継承と、記憶を守り継ぐことを、託されたんじゃないかって」
その言葉に、教授はしばらく黙り込んでいたが、やがて深く、感慨深げに頷いた。
「争いや略奪の歴史ではなく……分かち合いと、託された約束の、物語か」
美藍は、静かに頷いた。
「この土地に眠る、本当の真実は……憎しみや奪い合いの記憶じゃなくて、遠い昔に結ばれた、静かで確かな絆の――物語なんだと」
その言葉が、夜の静寂の中に、静かに溶けていった。
美藍は、そこでふと、少し茶目っ気のある笑みを浮かべた。
「それでね、その技術や統治方法を、卑弥呼が受け継いで……阿波で、邪馬台国が誕生したんだと思うの」
「卑弥呼が……」
正則が、思わず息を呑んだ。美藍は、身振りを交えながら、楽しそうに続けた。
「そして、約束を守るために、この地を忌部氏と三木氏に任せて――船や航海術を身につけた、阿曇氏の力を借りて、大和に出たのよ」
「大和に……」
教授が、興味深そうに目を細める。美藍は、指を折りながら、丁寧に説明を続けた。
「忌部氏には、神殿――幕屋の構造や、祭祀のやり方を託した。麻を育てて、神聖な布を織る技術も。三木氏には、その麻から、本当に大事な儀式に使う布――麁服を仕立てる役目を任せた」
「二つの一族で、役割を分けた、ということか」
正則が尋ねると、美藍は頷いた。
「うん。忌部が『祈りの形』を守って、三木が『祈りを包む布』を守る。二つが揃って、初めて一つの信仰が、ちゃんと形になる」
美藍は、そこでふと、これまで温めてきた、もう一つの閃きを口にした。
「それに……三木っていう名前、ヘブライ語だと『ミルキ』っていう言葉に近いの」
「ミルキ?」
「『我が王に属する者』っていう意味。……三木家は、ただ麻を育てて布を織る一族なんじゃなくて、名前そのものに、『王に仕える者』っていう誇りが、刻み込まれてたんだと思う」
教授が、驚いたように目を見開いた。
「そこまで、辿り着いていたのか」
美藍は、静かに頷いた。
「忌部っていう名前も、同じ。ヘブライ語で『イン・バイッ』――『神の家に属する者』っていう意味に近い響きがあるの」
「神の、家……」
教授が、その言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「二つの名前、どちらも、ただの苗字じゃなかったんだよ。神に仕える者と、王に仕える者――その両方が揃って、初めて、この土地の祈りは守られてきたんだと思う」
夜風の中、美藍の言葉が、静かに、けれど確かな重みを持って、その場にいる全員の胸に染み渡っていった。
「そして、自分が亡くなったら」
美藍は、宝蔵石を見上げながら、少しいたずらっぽく、けれど確かな確信を込めて言った。
「生まれた阿波に、返してほしいって――そう言い残したんじゃないかな」
夜風が、木道を静かに吹き抜けていく。美藍の突拍子もない、けれど不思議と説得力のある推理に、正則も教授も、思わず顔を見合わせて笑みをこぼした。
美藍は、そこでふと、悪戯っぽい笑みを浮かべ、教授の方を見た。
「それに……教授」
「なんだね」
「教授こそ、忌部一族だから――邪馬台国の畿内説を唱えて、この地を守ってきたんですよね?(笑)」
教授は、一瞬、虚を突かれたように目を見開いたが、やがて、観念したように、盛大に笑い出した。
「はっはっは! ……全て、見抜かれていたか」
「最初から、気づいてましたよ」
美藍もくすくすと笑いながら、そう答えた。
「それと、もう一つ」
美藍は、思い出したように、人差し指を立てた。
「三、四十年前、藍染め工房で蒅唄を聞いて、興奮してた"いんべ"さんっていう学生さんも……教授ですよね?」
教授は、一瞬、大きく目を見開いた。それから、観念したように、小さく息を吐いた。
「……参ったな。そこまで、繋げてきたか」
「善造さんが、懐かしそうに話してくれたんです。意味も分からないまま、夢中になって唄を聞いてた学生さんがいたって」
「あの頃は……まだ、若かったんだよ」
教授は、どこか気恥ずかしそうに、頭をかいた。
「自分の血筋に気づいたばかりで、浮き足立っていた。……若気の至りだ」
「ふふっ」
美藍は、小さく笑った。
「そんな教授が、私の説を頭ごなしに否定してたの、なんだか、今は分かる気がします」
「……かもしれんな」
教授は、静かにそう答えると、剣山の夜空を、もう一度見上げた。夜の山頂に、久しぶりに、明るい笑い声が響き渡った。




