第69話:大剣神社にて
やがて、木々の合間に、あの巨大な御塔石の姿が見えてきた。
「やっと……ここまで登ったか」
教授が足を止め、大きく息をついた。
「ふぅー……」
正則も、岩を見上げながら、額の汗を拭った。
「せっかくだし、大剣神社も、見ていくか」
「そうですね」
正則は頷きながら、ふと、口元に小さな笑みを浮かべた。
「美藍たちも……逃げないだろうし」
その言葉に、教授も思わず笑った。
「そうですね。慌てることはなさそうです」
二人は、夕暮れの光に照らされた御塔石の前で、しばし足を止めた。険しい山道の疲れも、この巨岩を前にすると、不思議と和らいでいくようだった。
拝殿の脇に腰を下ろし、ひと息ついたところで、正則はふと、先ほどからずっと気になっていたことを口にした。
「先ほど、おっしゃっていた……何かを狙う輩というのは、いったい」
教授は、遠くに広がる山並みを見つめたまま、静かに答えた。
「ああ……それは」
「『キリストの福音』という教団だ」
「教団……」
「彼らは、日ユ同祖論を掲げていてね。アークが、この剣山のどこかにあるはずだと、ずっと探しておる」
教授はそこで、一度言葉を切った。
「昔から、私のところにも、取材だという名目で、よく聞きに来ている」
正則は、思わず表情を険しくした。
「どこで知ったか……布都君が、邪馬台国四国説を調べていると知ったらしくてな」
教授は、静かに息を吐いた。
「近づいてくるのでは、と」
御塔石の根元から湧き出る水の音だけが、二人の間の沈黙を、静かに埋めていた。正則は拳を握りしめ、遠く山頂の方角を見つめた。
「……美藍は、大丈夫でしょうか」
教授は、正則の不安げな表情を見て、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「大丈夫だ」
「しかし……」
「もしもの時には――と、すでに手は打っているんでな」
「それに」
教授は続けて、静かに立ち上がった。
「彼らも、手荒なことはしないはずだ。……私自身、昔、同じようなことをされてきたからな」
「教授も、ですか」
正則が驚いたように尋ねると、教授は小さく頷いた。
「場所を特定できるまでは、向こうも、こちらを利用したいはずだ。手荒な真似をして、こちらの機嫌を損ねるような真似は、しないだろう」
その言葉に込められた、長年の経験に裏打ちされた重みを、正則は静かに受け止めた。
正則は、ふと思い切ったように尋ねた。
「先生……あ」
言い間違えたことに気づき、慌てて言い直す。
「教授は、アークは、どこかにあるとお考えですか?」
教授は、その懐かしい呼び間違いに、ふっと目を細めた。
「うーん……そうだな」
しばらく考え込むように、御塔石を見上げる。
「特定はできても、調査は無理だろう」
「無理、というのは」
「例えば……山頂の岩を、退かすことなどできんし」
教授は、傍らの巨岩に、そっと視線を向けた。
「神社を、取り壊すこともできん」
「確かに、そうですね」
正則も頷きながら、御塔石の威容を見上げた。
「もし、本当にあるとしたら……よく隠せてるものだと、感心すらしてしまうよ」
教授はそこで、ふと何かを思い出したように続けた。
「実際、昭和の初めにも――戦前だったか、本格的な調査が入ったことがあるそうだ」
「調査、ですか」
「ああ。高根正教という人物が、私財を投じて、三年ほど山頂付近を掘り進めたらしい。全長、百五十メートルにも及ぶ規模だったと聞く」
正則は思わず息を呑んだ。
「それで、何か見つかったんですか」
「アークそのものは、出なかったそうだ。だが……玉石や、人工的に配置されたような鏡石、それにトンネルのような構造まで、見つかったという報告が残っている」
教授は、御塔石の方角を見やりながら、静かに続けた。
「その調査も、戦争の激化で、中断を余儀なくされた。……その後、戦後になって、今度は元海軍大将だったという人物が、また大規模な発掘隊を組んで、後を追ったらしい」
「それも、結局……」
「見つからなかった。だが、それだけの調査をしても見つからないというのは、逆に言えば、何かがある証拠なのかもしれん」
「今は、調査もできないだろうがな」
「できない、というのは」
「今は、国定公園に指定されている。昭和の初めに調査が行われたのとは違って、今の時代は、法律で掘削も発掘も、一切禁じられているんだ」
正則は、ゆっくりと頷いた。
「そうだったんですね……」
「だが、それも……悪いことばかりではない」
教授はそう言うと、静かに笑みを浮かべた。
「トレジャーハンターたちが、これ以上、この山を荒らさないためには、いいことなのではないかな」
その言葉には、これまでこの土地を密かに見守り続けてきた者としての、静かな安堵が滲んでいた。
教授はしばらく黙り込んだ後、遠くを見つめながら、静かに続けた。
「君は、学生の頃……ユダヤなのか、あるいは大陸からなのか。多くの血が、この四国に入ってきているという思いで、ゲノム比率を研究していたな」
「よく、覚えていらっしゃいますね」
正則が少し照れくさそうに笑うと、教授も懐かしそうに目を細めた。
「あの卒論は、今でもよく覚えているよ」
「さあ、行こう。日が暮れる前に」
正則も頷き、リュックを背負い直した。二人は再び、山頂を目指して、重い足取りで歩き出した。




