第68話:同行二人
見ノ越の駐車場に車を停めた直後、教授のスマホが小さく震えた。画面を確認すると、短いメッセージが届いている。
「……ふむ」
「どうしました?」
正則が尋ねると、教授はスマホをしまいながら答えた。
「美藍君たち、今日は山頂のヒュッテに、宿泊するようだ」
「そうなんですか」
ちょうどその時、正則のポケットでも、スマホが震えた。取り出して画面を見ると、みやこからのメッセージだった。
『美藍たちね、雷でリフトが止まって、今日はヒュッテに泊まるんですって』
正則は思わず、教授と顔を見合わせた。
「……こちらにも、同じ知らせが来ました。妻からです」
教授は表情を引き締めた。
「我々も、急ごう」
「分かりました」
正則も頷き、リュックを背負い直した。
見ノ越に到着すると、まず教授がリフト乗り場へと足を運び、係員に運行状況を確認した。
「今日は、落雷の影響で、しばらく運休しておりました。今も点検中で、再開の見込みは、まだ立っておりません」
「そうですか」
教授は静かに頷くと、正則の方を振り返った。
「わかりました。……徒歩で行くしかなさそうだ」
「仕方ありませんね」
二人は互いに頷き合うと、日が傾き始めた空を見上げながら、登山道の入り口へと足を向けた。
雨上がりのぬかるんだ山道は、思いのほか、二人の行軍を遅らせた。足元は滑りやすく、一歩進むごとに、靴底に泥がまとわりついていく。
「普段なら、二時間もあれば登れる道のはずなんだが」
教授が息を切らしながら呟くと、正則も苦笑いを浮かべた。
「このぬかるみと、我々の年では……四時間はみておいた方がよさそうですね」
「そうだな。今、三時半か」
教授が腕時計を確認しながら言った。
「予定通りいけば、七時半頃……ちょうど、日が沈む頃になるか」
「急ぎましょう」
正則がそう言うと、二人は再び、重い足取りで、ぬかるんだ山道を登り始めた。
しばらく歩き続けたところで、教授が木の幹に手をつき、荒い息を整えた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
少し先を歩いていた正則が、振り返って声をかけた。
「大丈夫ですか」
「ああ……少し、休もう」
教授はそう言うと、傍らの岩に腰を下ろした。正則も、静かにその隣に立ち止まる。
「よもや、リフトが停まっているとは」
「そうですね……」
教授は額の汗を拭いながら、力なく笑った。
「もう少し、天候を見極めてから出発すればよかったですね」
「ああ……後で、動き出すとは」
その声には、悔しさというより、どこか諦めにも似た、静かな響きが滲んでいた。
教授は息が整うのを待ちながら、ふと、遠くを見るような目をした。
「まさか、粟飯原君が……布都くんの父親だと知った時には、ビックリしたよ」
「ははは、そうでしたか」
正則は苦笑いを浮かべながら、頭をかいた。
「娘が、教授の名前を出した時、もしや、と思いましてね」
教授は小さく頷いた。
「私も、あの子の口から『粟飯原』という旧姓を聞いた時、まさかと思った。……あれから、もう何十年になるかな」
「そうですね。……あの頃は、まさかこんな形で、また巡り合うとは思ってもみませんでした」
教授は懐かしそうに目を細めた。
「私がまだ准教授だった頃、君はゼミの学生だった。あの時も、この辺り――剣山に、ゼミの研究で登ったことがあったね」
「ええ、よく覚えています。あの時は、教授じゃなくて、まだ先生って呼んでましたけどね」
正則がそう言うと、教授は小さく笑った。
「あの頃に比べて……お互い、すっかり体力がなくなりましたね」
「本当に。あの頃は、この程度の山道、息一つ切らさずに登っていた気がするんですが」
正則も苦笑いを浮かべながら、傍らの木の幹に、そっと手をついた。夕暮れの風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。
教授はふと、真剣な面持ちになって尋ねた。
「君の研究……あの卒論は、娘さん、美藍君の役に立ちそうかね」
正則は少し考えるように、視線を落とした。
「さぁ……あの娘が、どこまで理解して、結び付けていくか。今は、見守るぐらいしかできなくて」
「そうか」
「少しは、役に立てると嬉しいんですけどね」
正則はそう言って、静かに笑った。その笑顔には、娘の歩みを、遠くから静かに支え続けてきた、父親としての深い想いが滲んでいた。
正則はふと、ずっと胸にあった疑問を、思い切って口にした。
「教授は、娘の研究に、反対されてると聞きましたが……どうして、そこまで反対されたんだろうと、悩んでました」
教授は一瞬、足元の岩を見つめたまま、黙り込んだ。それから、静かに口を開く。
「それは……開けてはならない箱を、開けてしまいそうな勢いが、怖かったんだ」
「箱……」
「ここ徳島には、守らなければならないものがある。そして、それを狙っている輩も、いる。危険な思いをするかもしれんので、反対したんだが」
教授はそこで、諦めたように小さく息を吐いた。
「まぁ……誰に似たのか、反発して、さらに深く踏み込んできたわ」
「そうでしたか」
正則は苦笑いを浮かべながら、少し考えるように顎に手を当てた。
「おそらく……嫁似ですね」
「ははは」
教授が思わず声を上げて笑った、その時だった。
遠く離れた徳島市内、布都家の居間で、みやこが大きなくしゃみをした。
「ハクション!」
「あら、やだ。……さっきの雨で、少し冷えたのかしら」
みやこは首をかしげながら、羽織を肩にかけ直した。誰かが自分の噂をしているとは、露ほども知らないまま。
二人は笑いを収めると、互いに頷き合い、再び山頂を目指して、重い足取りで歩き出した。夕暮れの光が、二人の影を長く、ぬかるんだ山道に落としていた。




