第66話:もう一度、宝蔵石へ
美藍はスマホをしまうと、窓の外に広がる空を、もう一度見上げた。雨はすっかり止み、夕方の澄んだ光が、雲の切れ間から差し込んでいる。
「雨、やんだね」
「うん。せっかくやし、少し歩きたい気分ばい」
里奈も布団から起き上がり、伸びをした。美藍はふと、思い立ったように言った。
「ねえ、もう一回、ゆっくり本宮を見学しに行かない?」
「本宮って、さっきの神社?」
「うん。さっきは雷が来て、慌ただしくお参りしただけだったから……もう一度、ちゃんと見ておきたくて」
里奈は少し考えてから、大きく頷いた。
「うん、行こう。名方さんも誘う?」
「そうだね」
二人は部屋を出て、ドミトリーの区画へと声をかけた。カーテンの向こうから、名方の声が返ってくる。
「本宮に? ああ、構わない。少し身体を伸ばしたかったところだ」
三人は身支度を整え、再びヒュッテを出た。雨上がりの空気は、これまでにないほど澄み渡り、木道に残る水たまりが、夕方の光を反射してきらきらと輝いている。
宝蔵石神社へと続く道を歩きながら、美藍はふと、周囲を見渡した。昼間あれほど賑わっていた登山客の姿は、もうほとんど見当たらない。空には、うっすらと雲が残りながらも、ところどころに青空が覗いていた。
「静かになったね」
「うん。なんか、さっきとは全然違う雰囲気ばい」
石段を上ると、目の前に、黒々とした鳥居が現れた。注連縄が渡され、白い紙垂が、夕暮れの風に揺れている。そして、その鳥居のすぐ背後――まるで鳥居を押し潰さんばかりの威容で、宝蔵石が天を突くように聳え立っていた。
「昼間より、なんだか迫力が増して見えるばい」
里奈が見上げながら呟く。美藍も同じように、その巨石を仰ぎ見た。夕暮れの光を受けて、岩肌が淡い金色に縁取られている。
三人は鳥居をくぐり、拝殿の前で、改めて足を止めた。傍らの授与所には、まだ灯りが点り、御守りや御札が静かに並んでいる。
「今度は、慌てずにお参りできるね」
美藍はそう言うと、深く手を合わせた。里奈も名方も、それに倣って静かに祈りを捧げる。
しばらくの沈黙の後、美藍は目を開け、宝蔵石をじっと見つめた。夕暮れの光の中で、岩の表面が、まるで内側から淡く発光しているかのように見える。
「なんだか、昼間見た時とは、また違う表情をしてるみたい」
「日が傾くと、こんなに雰囲気変わるんやね」
里奈も感嘆したように岩を見上げた。名方は少し離れた場所から、静かにその光景を眺めていた。
「……美しいな」
その呟きは、風に紛れて、ほとんど誰にも聞こえないほど小さなものだった。
三人はしばらくの間、夕暮れに染まる宝蔵石の前で、言葉少なに、その静けさに浸っていた。
ふと、里奈がポケットからスマホを取り出し、何気なく画面を確認した。
「あ……リフト、動いとる」
「え?」
美藍が振り返ると、里奈は運行情報のページを見せながら、少し戸惑ったような顔をした。
「さっき見た時は運休になっとったのに、もう再開しとるみたい」
名方もスマホを確認し、頷いた。
「本当だ。……今からなら、最終便に間に合うかもしれないな」
美藍は一瞬、下山するべきかどうか、頭の中で考えを巡らせた。せっかく宿の予約もしているし、この夕暮れの静けさも、まだ名残惜しい。
「えー……」
「まぁ、いいか」
美藍がそう呟くと、里奈も同じ気持ちだったのか、笑いながら頷いた。
「うん。せっかくやし、このまま泊まっていこうばい」
名方も特に異論はないようで、静かにスマホをしまった。
「そうだな。……もう少し、ここにいよう」
三人は再び、夕暮れに染まる宝蔵石へと視線を戻した。リフトが動いているという事実は、どこか遠い出来事のように感じられ、この静かな山頂の時間を、誰も手放したくないと思っているようだった。
ふと、木道の向こうに目をやると、大きなリュックを背負ったハイカーらしき数人が、疲れた足取りで、ヒュッテの方へと歩いていくのが見えた。
「あの人たちも、下山諦めたんかな」
里奈が呟くと、美藍もその後ろ姿を目で追った。
「たぶん、雷の後の道が心配だったのかもね」
「今日は、泊まる人、結構おるみたいばい」
里奈がそう言いながら、少し安心したように笑った。見知らぬ誰かの気配があることが、この静かな山頂に、ほんの少しだけ、賑やかさを添えているように感じられた。
美藍は、遠ざかっていくハイカーたちの背中を、しばらく目で追っていた。
彼らはきっと、ただ純粋に、この山の美しさや厳しさを求めて、ここまで登ってきたのだろう。何も知らず、何も背負わず、ただ一人の登山者として。
その姿を見つめるうちに、美藍の胸の中に、ふと、静かな覚悟のようなものが芽生えた。
自分は、彼らと同じようには、もうここにいられない。忌部の血、三木の血――知らず知らずのうちに背負っていた何かが、今この瞬間、確かな輪郭を持って、自分の中に根を下ろしていくのを感じる。
言葉にしようとすると、あまりに漠然としていて、うまく形にならない。ただ、これから訪れるであろう夜が、これまでの旅の、すべての意味を問う夜になるのだという予感だけが、はっきりと胸に残った。
美藍は小さく息を吸い、宝蔵石をもう一度見上げた。
「……大丈夫」
誰に向けるでもなく、そう呟く。里奈がその声に気づき、振り返った。
「美藍、どうしたと?」
「ううん、なんでもない」
美藍は微笑んで首を振ったが、その目の奥には、これまでとは違う、静かな強さが宿っていた。
一方、里奈はというと、境内の隅にしゃがみ込み、地面に転がる石を、真剣な顔で物色していた。
「これは軽すぎるばい……こっちは、ちょうどいい重さかも」
手頃な大きさの石を拾い上げては、握り具合を確かめるように、何度も持ち替えている。
「里奈、何してるの?」
美藍が声をかけると、里奈は一瞬びくりと肩を揺らし、慌てたように取り繕った。
「あ……いや、その、うん! 綺麗な石だなって、思って!」
美藍はくすりと笑いながら、それ以上は何も聞かず、里奈がその石をそっとポケットに忍ばせるのを、黙って見守った。




