第65話:山頂ヒュッテ
食事を終える頃には、あれほど激しかった雨も、いつの間にか小降りになっていた。窓の外を見ると、雲の切れ間から、わずかに青空が覗いている。
「あ、やんだばい!」
里奈が窓に駆け寄り、明るい声を上げた。美藍もほっと胸を撫で下ろす。
「よかった。じゃあ、そろそろ下山の準備をしましょうか」
名方は会計を済ませながら、ふと売店の店員に声をかけた。
「すみません、リフトの運行状況、分かりますか?」
店員は少し困ったような表情を浮かべた。
「ああ……それが、先ほどの落雷の影響で、安全確認のため、運行を停止しているんです」
「え……」
美藍と里奈が同時に顔を見合わせた。
「再開の見込みは?」
名方が尋ねると、店員は申し訳なさそうに首を振った。
「点検が終わるまでは、何とも言えません。場合によっては、本日中の再開は難しいかもしれません」
その言葉に、店内の空気が、一瞬にして張り詰めた。
「じゃあ、私たち……」
里奈が不安そうに呟く。美藍は頭の中で、状況を整理しようとした。歩いて下山する、という選択肢もあるにはあるが、この標高から見ノ越まで、日没までに戻りきれるかは分からない。
名方は落ち着いた様子で、スマホを取り出した。
「まずは、ヒュッテの宿泊が可能かどうか、確認してみよう」
「泊まる、ってことですか……?」
美藍が思わず聞き返すと、名方は静かに頷いた。
「無理に下山して、日が暮れた山道で事故を起こす方が、よほど危険だ。今日は、ここに泊まろう」
その言葉に、美藍の胸の奥で、先ほどから拭いきれずにいた、あの「嫌な予感」が、静かに、けれど確かに、形をなしていくのを感じていた。
名方は受付へと向かい、しばらくやり取りをした後、戻ってきた。
「簡易個室が一部屋、空いているそうだ。あとは、ドミトリータイプなら空きがあるらしい」
「簡易個室……」
美藍が呟くと、名方はすぐに続けた。
「女性二人は、その個室を使うといい」
「じゃあ、名方さんは?」
里奈が尋ねると、名方は当然のように答えた。
「私は、ドミトリーで構わない」
「え、でも……」
美藍が少し申し訳なさそうな顔をすると、名方は軽く手を振った。
「気にすることはない。もとより、一人分の枠しか空いていないんだ。二人で個室を使ってもらった方が、私としても気が楽だ」
「ありがとうございます、名方さん」
美藍が頭を下げると、名方は苦笑いを浮かべた。
「昨日の相部屋の経験があるからな。今更、ドミトリーくらいで驚きはしないさ」
その言葉に、里奈が思わず吹き出した。
「あはは、いびきの合唱団、また会えるといいですね」
「勘弁してくれ……」
名方は疲れたようにため息をついたが、その表情には、どこか安堵したような色も浮かんでいた。
案内された個室は、木の壁に囲まれた、簡素な三畳ほどの空間だった。敷かれた布団と、小さな明かり取りの窓があるだけの、質素な作りをしている。
「鍵はないので、貴重品はご自身で管理してくださいね」
スタッフの説明に、美藍は頷きながらリュックを下ろした。
「本当に、シンプルな部屋だね」
「でも、雨風しのげるだけでも、ありがたいばい」
里奈は布団の上にごろりと横になり、木の天井を見上げた。
一方、名方が案内されたドミトリーは、二段ベッドがいくつも並び、それぞれの前にカーテンが下げられた、半個室のような造りになっていた。
「まあ、悪くはないな」
名方は自分に割り当てられた区画のカーテンを開け、荷物を置いた。梯子を使って上段に上がると、木の香りのする、こぢんまりとした寝床が、彼を迎えた。
窓の外では、雲の切れ間から差し込む夕方の光が、雨に濡れた笹原を、淡く照らし始めていた。
「泊まるなら……おばあちゃんに電話しないと」
美藍がはっとしたように呟いた。
「あ、そうやね。うちらの帰りが遅いって、心配させてしまうばい」
里奈も慌てて頷く。
「家にも、連絡しておかないと」
美藍はスマホを取り出し、まず美馬の祖父母宅へと電話をかけた。数コールの後、祖母のゆったりとした声が返ってくる。
『もしもし、美藍かい?』
「おばあちゃん、ごめんね。急に雷が来て、リフトが止まっちゃって……今日は、山頂の山小屋に泊まることになったの」
『まあ、そりゃ大変じゃったね。怪我はないんかい?』
「うん、大丈夫。ちゃんとした宿だから、安心して」
『そうかい。ほんなら、無理せんと、ゆっくり休みんさい』
祖母の声には、驚きよりも、むしろ孫を気遣う穏やかさが滲んでいた。
「うん、ありがとう。明日には、ちゃんと下山するから」
『気をつけてね』
通話を切ると、美藍は続けて、実家へと電話をかけた。しばらく呼び出し音が鳴った後、母のみやこが電話に出た。
『もしもし、美藍?』
「お母さん、あのね。雷で、動けなくなっちゃって」
『え、雷?』
みやこの声が、一瞬強張った。
「うん、リフトが止まっちゃって、今日は山小屋に泊まることになったの」
『あら大変……。お父さん、大丈夫かしら』
「え? お父さん、何か……?」
美藍が思わず聞き返すと、みやこは少し慌てたように声のトーンを変えた。
『ううん、なんでもないの。ただ、雷って聞いて、なんとなく』
「お父さんも、今どこかにいるの?」
『まぁ……お父さんだから、大丈夫でしょ』
みやこはそう言って、軽く笑い飛ばした。だがその笑い声には、何かを取り繕うような、微かなぎこちなさが混じっているように、美藍には聞こえた。
「……お母さん?」
『大丈夫よ。それより、美藍たちの方が心配だわ。ちゃんとした施設なの?』
「うん、ちゃんとしたところだよ。名方さんも里奈も一緒だし」
『そう……なら、少し安心だけど』
みやこは少し間を置いてから、続けた。
『気をつけるのよ。また明日、連絡してね』
通話を終えると、美藍はしばらく、スマホの画面を見つめたまま、動けずにいた。
(お父さん、大丈夫かしら……って)
母の言葉が、耳の奥に、小さな棘のように残っていた。父は今、どこにいるのだろう。まさか、この同じ山のどこかに――そんな考えが、ふと頭をよぎったが、すぐに、まさか、と打ち消した。
「連絡、済んだ?」
里奈が尋ねると、美藍は我に返ったように頷いた。
「うん……済んだ」
窓の外では、夕暮れの光が、次第にオレンジ色を深めていく。美藍はもう一度、母の言葉を思い返しながら、赤く染まり始めた空を、じっと見つめていた。




