第64話四国のてっぺん
樹林帯を抜けると、視界が一気に広がった。目の前に現れたのは、木道が真っ直ぐに続く、見渡す限りの笹原だった。
「わぁぁ……!」
里奈が思わず声を上げ、駆け出すように木道を進んでいく。
「着いたー! 本当に、四国のてっぺんばい!」
両手を大きく広げ、青空に向かって叫ぶその姿を、美藍は微笑みながら見つめた。周囲には、遮るものが何一つない。ただ、青い空と、風に揺れる笹の海と、遥か彼方まで続く四国山地の稜線だけが、視界いっぱいに広がっている。
「本当に、来たんだ……」
美藍は木道の上で立ち止まり、これまでの旅程を、静かに振り返った。徳島市内から始まった調査、八倉比売神社、藍染工房、船盡比賣神社、そして磐境神明神社、忌部神社、種穂忌部神社、三木家住宅、伊射奈美神社、上一宮大粟神社、剣神社、大剣神社――数えきれないほどの場所を巡り、数えきれないほどの符合を積み重ねてきた。そのすべての道が、今、この一本の木道へと収束していく。
「あそこだ」
名方の声に、美藍は顔を上げた。木道の先、小高くなった場所に、小さな社が見えている。
「宝蔵石神社……」
三人は無言のまま、その社へと歩みを進めた。近づくにつれ、社殿の背後に、これまで見てきたどの磐座とも違う、静かな威厳を湛えた巨大な岩――宝蔵石が、その姿を現していく。
「これが……安徳天皇の宝剣が、眠っているとされる場所」
美藍は岩を見上げながら、静かに呟いた。伊射奈美神社で芽生えた「包み込む」という誓い、上一宮大粟神社で感じた「命の源流」、大剣神社で交わした「悪縁を切り、良縁を結ぶ」という祈り――そのすべてが、今、この場所へと繋がっている。
里奈も、笹原を駆け回っていた足を止め、社の前へとやってきた。
「なんか……ここに来て、急に、身が引き締まる感じがするばい」
「うん」
美藍は短く答えると、社に向かって深く手を合わせた。
その時、名方がふと空を見上げ、表情を曇らせた。
「……雲行きが、怪しくなってきたな」
美藍と里奈も釣られて空を見上げる。先ほどまで澄み渡っていた青空に、いつの間にか、灰色の雲が急速に広がり始めていた。
「急ごう」
名方が言い終わるか終わらないかのうちに、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
「ポツポツ……」
里奈が呟いた次の瞬間、遠くで低い音が響いた。
「ゴロゴロ……」
「雷!?」
里奈が悲鳴のような声を上げると同時に、雨粒が一気に勢いを増し始めた。
「走れ!」
名方の声に弾かれるように、三人は一斉に木道を駆け出した。空はみるみるうちに暗さを増し、稲光が一瞬、山頂全体を白く照らし出す。直後、腹の底に響くような雷鳴が轟いた。
「きゃあ!」
里奈が悲鳴を上げながらも、必死に足を動かす。美藍もリュックを両手で抱えるようにしながら、雨に打たれる木道を、全力で駆け抜けた。
視界の先に、山頂ヒュッテの明かりが見えてくる。
「あそこだ! もう少しだ!」
名方の声に励まされるように、三人は最後の力を振り絞った。
ヒュッテの軒先に飛び込んだ瞬間、堰を切ったように雨が激しさを増し、笹原全体を白く煙らせた。
「はぁ……はぁ……間に合ったばい……」
里奈が息を切らしながら、濡れた前髪をかき上げた。美藍もずぶ濡れになった腕を見つめながら、荒い息を整える。
「大丈夫か、二人とも」
名方も肩で息をしながら、心配そうに二人を見た。
「大丈夫……です」
美藍は答えながら、ヒュッテの窓の外に広がる、雷鳴に照らされた笹原を見つめた。先ほどまでの穏やかな夕暮れが嘘のような、荒々しい空模様が広がっている。
名方は軒先で雨宿りをしながら、ふと表情を和らげた。
「……ちょうどいい。やむまで、ここで食べていこう」
「あ、ここ、食堂もやってるみたいばい!」
里奈が入り口の案内板を見つけ、目を輝かせた。三人は雨を避けながら、ヒュッテの中へと足を踏み入れた。
木造の落ち着いた店内には、登山客らしき数組の姿がある。壁に貼られたメニューを見上げ、里奈が真っ先に声を上げた。
「カレーライス! 山の上で食べるカレーって、なんか特別な感じがするばい!」
「私はうどんにしようかな」
美藍がメニューを指しながら言うと、里奈が名方の方をちらりと見て、にやりと笑った。
「名方さんは、カレーですかね(笑)」
「え?」
「マドラスの時も、意地でカレー頼んでたやないですか。やっぱり、今回もカレー?」
名方は苦笑いを浮かべながら、メニューを見つめた。
「……いや、今日はうどんにしておこう」
「あれ、珍しいばい」
里奈が意外そうな顔をすると、名方は静かに笑った。
「毎回カレーというのも、芸がないだろう」
「あ、トッピングもできるみたいだよ。きつねとか、しいたけとか」
美藍がメニューを指しながら言うと、名方は少し考えてから頷いた。
「では、きつねを一つ」
「私はわかめにしようかな」
三人は雨音を聞きながら、それぞれの注文を告げた。
しばらくして、湯気の立つうどんと、大盛りのカレーライスが運ばれてきた。
「いただきます」
三人は手を合わせ、温かい食事を口に運んだ。出汁の効いたつゆが、冷えた身体にじんわりと染み渡っていく。
窓の外では、まだ雷鳴が轟き、雨が激しく笹原を叩きつけていた。しかし、その荒々しい景色を眺めながら食べる温かい食事は、不思議と心を落ち着かせてくれるものだった。
「んー、生き返るばい……」
里奈がカレーを頬張りながら、幸せそうに息をついた。美藍もうどんをすすりながら、窓の外の雨をぼんやりと見つめた。
この雨も、じきに止むだろう。止み次第、リフトの最終便に間に合うよう、急いで下山しなければならない。
そう頭では分かっていながらも、窓ガラスを叩き続ける雨音と、時折響く雷鳴を聞きながら、美藍の胸の奥には、うっすらとした不安が、拭いきれずに残り続けていた。
(なんだか……嫌な予感がする)
理由は分からない。ただ、この空模様の急変が、これから起こる何かの前触れのように思えてならなかった。




