第63話:御塔石
登山道は思ったよりも緩やかで、木漏れ日の中を、三人は着実に足を進めていった。三十分ほど歩いたところで、道が緩やかに曲がる。
その角を曲がった瞬間、三人は同時に足を止めた。
目の前に、高さ五十メートルはあろうかという、巨大な岩の柱が、空に向かって聳え立っていたのだ。
「うわ……なんやこれ、でかすぎるばい!」
里奈が立ち尽くしたまま、口をぽかんと開けた。美藍もその圧倒的な質量に、思わず息を呑む。緑深い山肌の中に、まるで人知を超えた何かが突き立てたかのような、その岩の存在感は、これまで見てきたどの磐座とも一線を画していた。
名方が足を止め、鋭い眼差しでその岩肌を見上げた。
「これが……古代の磐座信仰、あるいは天を突く『宝剣』そのものの象徴、ということか」
美藍はゆっくりと、その岩に近づいていった。見上げれば見上げるほど、首が痛くなるほどの高さだった。全身を包み込むような、圧倒的な威厳と、けれど不思議と温かい包容力――そんな相反する感覚が、同時に胸に迫ってくる。
岩のすぐ手前には、小さな拝殿があった。三人は自然と、その前で足を止める。
「大剣神社……」
美藍は由緒書きに目を通した。
「『天地一切の悪縁を切り、良縁を結ぶ』……そう書いてあります」
「悪縁を切って、良縁を結ぶ、か」
名方が静かに繰り返す。
美藍は拝殿に向かって、深く手を合わせた。目を閉じると、これまでの旅で出会ったすべての人と、すべての出来事が、脳裏を巡っていく。
(断ち切るべきものは、断ち切って。結ぶべき絆は、これからも大切に結び続けられますように)
そう心の中で祈りながら、美藍はふと、隣で手を合わせる名方の横顔に目をやった。その表情には、いつになく真剣な、何かを見定めるような色が浮かんでいた。
参拝を終えると、岩の根元から、澄んだ水が、こんこんと湧き出しているのが見えた。傍らの案内板には「御神水」の文字と、「日本名水百選」の表記が刻まれている。
「うわぁ、冷たそう!」
里奈が真っ先に駆け寄り、両手ですくって口に運んだ。
「んー! 冷たくて、美味しいばい!」
美藍もその水に手を伸ばした。指先に触れた瞬間、山の奥深くから湧き出るその冷たさが、じんわりと体中に染み渡っていく。すくった水を口に含むと、雑味のない、澄んだ味わいが広がった。見ノ越の剣神社で身を清めたのとはまた違う、身体の内側から浄化されていくような、そんな感覚だった。
美藍は濡れた手を見つめながら、静かに考えを巡らせた。
(悪縁を切り、良縁を結ぶ……)
この大剣神社の社号に込められた意味が、今の自分たちの状況と、あまりにも重なって聞こえる。名方が抱えているであろう何か――それを断ち切り、里奈や家族との絆を、もう一度確かに結び直すこと。それこそが、この旅の、本当の目的なのかもしれない。
「名方さん」
美藍が静かに呼びかけると、名方は岩を見上げたまま、振り返った。
「なんだ?」
「……いえ、なんでもないです」
美藍はそう言って、小さく微笑んだ。まだ、この胸にある確信を、言葉にする時ではない。
水分を補給し、しばし岩の威容に見入った後、三人は再びリュックを背負い直した。ここから先、山頂までの道は、これまでよりも一層、静けさを増していくようだった。すれ違う登山客の姿もまばらになり、木々のざわめきさえも、どこか厳かに感じられる。
「さあ、あと少しですね」
美藍がそう言うと、里奈が水で濡れた口元を拭いながら、少し表情を引き締めて頷いた。
「うん。……なんか、空気が変わった気がするばい」
三人は御塔石を見上げ、それぞれの想いを胸に、最後の静寂の中へと、再び山道を歩き出した。
しばらく歩くと、木々の間隔が徐々に広がり、視界が驚くほど開けていった。
「うわぁ……!」
美藍は思わず足を止め、その景色に見入った。眼下には、祖谷の深い谷間が幾重にも重なり、その向こうには四国山地の山並みが、青く霞みながら果てしなく続いている。雲がところどころ谷を埋め、まるで自分たちが天空の境内に立っているかのような、不思議な浮遊感すら覚えた。
「これが……雲海?」
里奈が目を輝かせながら、手すりに寄りかかるようにして身を乗り出した。
「すごい……下界と、切り離されたみたいばい」
風が笹原を撫でるように吹き抜け、さらさらという音を立てた。道の両脇には、丈の低い笹や、可憐な高山植物が群生しており、標高の高さを物語るように、下界とはまるで違う涼やかな空気が満ちていた。
美藍は目を閉じ、その風の音に耳を澄ませた。鳥のさえずりも、虫の声も、ここではどこか遠く、静かに響いている。下界の喧騒から完全に切り離された、この場所だけの静謐さ――それは、これまで巡ってきたどの聖域よりも、深く、澄み切ったものだった。
ここに立つと、まるでこの世界すべてを、両手のひらに収めたかのような――そんな不思議な錯覚に、美藍は襲われた。眼下に広がる山並みも、雲も、そして遥か古代から積み重ねられてきた、この土地の記憶のすべてもが、今、自分の内側へと吸い込まれていくような感覚だった。
美藍はふと、眼下に広がる雲海を見つめながら、静かに呟いた。
「卑弥呼は……ここに来たのかな」
「え?」
里奈が振り返る。美藍は少し照れたように笑った。
「ごめん、変なこと言った。……ただ、もし本当に邪馬台国が阿波にあったんだとしたら、卑弥呼も、こうやってこの景色を見たことがあるのかな、って」
里奈は少し考えるように、雲海に目を向けた。
「同じ景色ば見た人が、大昔にもおったかもしれんって思うと……なんか、不思議な感じばい」
名方は何も言わず、ただ静かに、雲の切れ間から差し込む光を見つめていた。
「なんだか……ここまで来ると、人間の悩みとか、企みとか、そういうものが、すごく小さく思えてくるな」
名方がぽつりと呟いた。その声には、いつもの飄々とした調子とは違う、何か静かな感慨が滲んでいた。
「うん。私も、同じこと思ってた」
美藍はそう答えながら、もう一度、眼下に広がる山並みを見渡した。この景色の中のどこかに、これまで巡ってきたすべての神社や史跡が、点在しているのだと思うと、胸の奥に、言葉にならない感動が込み上げてくる。
「さあ、行こうか」
名方が静かに歩き出すと、美藍と里奈もその後に続いた。雲上の風景に見送られながら、三人は、いよいよ山頂へと続く、最後の道のりへと足を踏み入れていった。




