第60話:命の女神
車は伊射奈美神社を後にし、山あいの道をさらに奥へと進んでいった。窓の外には、朝露に濡れた棚田が、朝日を受けてきらきらと輝いている。
「握り飯、そろそろ食べようか」
美藍がそう言うと、里奈が待ってましたとばかりに、竹の皮の包みを開いた。
「わぁ、いい匂いばい」
大ぶりの握り飯を頬張りながら、里奈が満足そうに目を細める。美藍もその一つを手に取り、口に運んだ。ふっくらと炊かれた米の甘みが、口の中に広がっていく。
「そういえば、次に向かう神社なんですけど」
美藍は握り飯を頬張りながら、スマホの画面を名方に見せた。
「上一宮大粟神社。オオゲツヒメ――大気都比売神っていう女神様が祀られてるの」
「オオゲツヒメ……初めて聞く名前ばい」
里奈が首を傾げる。美藍は米粒を口の端につけたまま、笑いながら答えた。
「阿波独自の女神様なんだって。お米とか、粟とか……穀物を司る神様。古代の阿波の繁栄を支えた、女性的な包容力の象徴、みたいな」
「今、まさに食べとる、このお米みたいな?」
「そうそう。なんだか、タイミングが良すぎるくらいだよね」
美藍は握り飯を見つめながら、小さく笑った。祖母が握ってくれた、この温かい米の一粒一粒もまた、はるか昔から受け継がれてきた、命を繋ぐ営みの一部なのだと思うと、不思議な感慨が込み上げてくる。
名方はハンドルを握りながら、静かに口を開いた。
「古事記の中では、オオゲツヒメは『阿波国』の別名――大宜都比売そのものだと、されている」
「阿波国の、別名?」
「ああ。つまり、阿波という土地そのものが、女神として描かれているということだ」
名方はふと、何かに気づいたように言葉を続けた。
「この神社の名前――『大粟』という字が入っている。美藍さんの、お父さんの旧姓――粟飯原と、同じ字だな」
美藍は、握り飯を持つ手を止めた。
「粟飯原……」
これまで気にも留めていなかった、父の家の名前。その中に、まさか女神と結びつく土地の名が、そのまま刻まれていたとは。
「それに……『飯原』も、考えてみれば、『米の原』って書きますよね」
美藍は自分の言葉に、ハッとしたように顔を上げた。
「粟も、米も……全部、穀物。オオゲツヒメに繋がる字が、名前の中に埋め込まれてる」
「偶然、なんでしょうか」
美藍が呟くと、名方は静かに首を振った。
「さあ……。ここまで重なってくると、もう偶然とは思えなくなってくるな」
名方の声には、いつもの取材者らしい落ち着きの奥に、隠しきれない探究心の光が宿っていた。
「麻も、藍も、そして剣山の信仰も……すべてが、この命の源流と繋がっているのかもしれない」
美藍はその言葉に、静かに頷いた。国を生んだ母神から、命を育む女神へ――この土地に刻まれた神話が、一つの大きな流れとして、自分の中に染み込んでいくのを感じていた。
やがて車は、上一宮大粟神社の駐車場へと滑り込んだ。木々に囲まれた境内は、朝の光を浴びて、静かに三人を迎え入れる。
「着いたばい」
里奈が最後の一口を頬張りながら、車を降りた。美藍も残りの握り飯を大切に包み直すと、リュックにしまい、鳥居へと向かって歩き出した。
その車列から少し離れた道の脇、木々の陰に停められた黒いセダンの中で、二人の男が、双眼鏡越しに三人の姿を見つめていた。
「……神社巡りが、続いているな」
「例の記者から、まだ動きがあったという報告はない。今しばらく、様子を見ろとのことです」
運転席の男が短く頷き、エンジンを切らないまま、静かにその場に留まり続けた。
上一宮大粟神社の境内は、杉の巨木が両脇に立ち並ぶ、静謐な参道から始まっていた。木漏れ日が石畳に揺れ、澄んだ空気が、三人の頬を撫でていく。
「うわぁ……なんか、空気が違うばい」
里奈が大きく息を吸い込みながら、辺りを見渡した。神山町の名の通り、山そのものが神域であるかのような、静かな圧を感じさせる場所だった。
拝殿に近づくと、美藍は彫刻の施された社殿の装飾に目を留めた。龍や鳳凰を模した精緻な彫り物が、長い年月を経てなお、力強い存在感を放っている。
「立派な彫刻ですね」
名方が感心したように見上げながら呟いた。
「阿波忌部が拓いた、穀物と麻の文化――その原点が、ここにあるのかもしれない」
美藍は由緒書きに目を通し、思わず声を上げた。
「あ……これ、見てください」
「どうした?」
「阿波国の一宮って、今は鳴門の大麻比古神社ってことになってるんですけど……ここ、上一宮大粟神社こそが、本来の一宮――『元一宮』だったっていう伝承が残ってるみたいです」
名方は驚いたように由緒書きを覗き込んだ。
「表の一宮と、隠された元一宮……」
「これも、これまで見てきたのと同じ構図かもしれません。表向きの看板と、本当の中心が違う場所にある」
里奈が神妙な面持ちで頷いた。
「忌部神社の時と、おんなじやね」
「うん。この国には、そういう『二重の看板』が、あちこちに隠されてるのかもしれない」
美藍はそう言いながら、拝殿に向かって静かに手を合わせた。参道の奥、木立の隙間を、一陣の風が静かに吹き抜けていった。誰にも気づかれることなく、その風は、境内の外へと吹き去っていった。
「見守っていてください。……これから、剣山に向かいます」
三人は名残惜しさを感じながらも、次の目的地――見ノ越へと、歩みを進め始めた。




