第59話:国生みの社
翌朝六時、すでに夏の朝日がまぶしく降り注ぐ中、美馬の祖父母宅の玄関先では、祖父母がすでに起き出し、三人を見送る準備を整えていた。
「おうおう、今日も暑くなりそうじゃわ」
祖父が空を見上げながら、独り言のように呟いた。祖母は台所から、竹の皮に包んだ握り飯を手に、玄関先へと出てきた。
「ほれ、握り飯じゃ。朝ごはん、車で食べんしゃい」
「わぁ、ありがとう、おばあちゃん」
美藍が受け取ると、ずっしりとした重みが手に伝わってきた。里奈も横から覗き込み、目を輝かせる。
「めっちゃぎょうさん入っとるばい!」
「たんと食べて、力つけんとな。山は、思うとるより厳しいけんの」
名方も丁寧に頭を下げた。
「本当に、何から何まで、お世話になりました」
「ええから、ええから。気をつけて行っておいで」
祖父が三人の顔を、一人ずつ見渡しながら言った。
「儂も若い頃は、毎年のように剣山さん、拝みに行ったもんじゃ。……気持ちのええ山じゃけん、しっかり味わっておいで」
「行ってきます」
三人は車に乗り込み、すでに夏の日差しが照りつける中、剣山方面へと出発した。
車がしばらく走ったところで、美藍はスマホの地図を確認しながら、名方に声をかけた。
「名方さん、この先に、伊射奈美神社っていうのがあるんですけど……ちょっと寄ってもらえますか」
「伊射奈美神社?」
「イザナミノミコトを祀ってる、古い神社なんです」
「イザナミって……国生みの神話の?」
里奈が後部座席から身を乗り出す。美藍は頷いた。
「うん。日本を生んだ、母なる神様。実は、この阿波にこそ、国生み神話の本当の舞台があったんじゃないかっていう説もあって」
名方は少し驚いたように、ハンドルを握る手に力を込めた。
「国生みの舞台が、阿波……」
「まだ、確証はないんですけど。でも、剣山に向かう前に、一度、ちゃんとお参りしておきたくて」
名方は静かに頷き、ナビに神社の名前を打ち込んだ。
伊射奈美神社は、静かな里山の中に、ひっそりと佇んでいた。境内に足を踏み入れると、朝の澄んだ空気が、三人を包み込む。
「ここに、イザナミノミコトが……」
美藍は拝殿の前で、静かに手を合わせた。ふと、頭に被ったままだった藍染めのチューリップハットに触れる。祖母から譲り受けたその布地の感触が、指先から、静かに伝わってきた。
日本という国そのものを生んだとされる母神。その伝承が、この吉野川流域に、脈々と息づいている。美藍は目を閉じ、これまで積み重ねてきたすべての発見――剣、麻、藍、忌部、三木――が、この一柱の女神へと繋がっていくのを感じていた。
(私は、力でねじ伏せるんじゃない。すべてを、包み込んでいくんだ)
そんな思いが、静かに、けれど確かに、美藍の胸の奥に芽生えていった。
名方は少し離れた場所から、本殿の構造を見上げながら、ゆっくりと口を開いた。
「記紀神話における『国生み』の、本当の舞台……それは、畿内ではなく、この吉野川流域だったんじゃないかっていう説がある」
「国生みが、ここで……」
里奈が息を呑む。名方は静かに続けた。
「イザナミが国を生み、そして、この地に眠っている――もしそうだとしたら、すべての始まりは、ここだったことになる」
朝もやがまだうっすらと残る境内に、名方の言葉が、静かに染み渡っていった。美藍はその言葉を聞きながら、これが単なる宝探しではなく、日本という国そのものの根源を辿る旅なのだと、改めて実感していた。
「なんか、不思議な感じばい。国を生んだ神様が、こんな身近な場所に祀られとるなんて」
里奈が呟くと、美藍も同意するように頷いた。
「うん。……もし、本当にここが、国生みの舞台だったんだとしたら」
美藍は拝殿に向かって、もう一度深く手を合わせた。
(これから、剣山に登ります。どうか、見守っていてください)
そう心の中で祈りながら、美藍はふと、自分の中に、これまでとは違う何かが芽生え始めているのを感じていた。それは、単なる好奇心や学問的な探究心とはまた別の、もっと根源的な――まるで、この土地そのものと繋がっていくような、静かな感覚だった。
名方も里奈も、それぞれに手を合わせ、しばらくの間、境内には静寂が満ちていた。
「さぁ、次は上一宮大粟神社。それから、いよいよ見ノ越です」
美藍がそう言うと、三人は再び車へと戻り、朝日の中、次の聖地を目指して走り出した。
その後方、気づかれない絶妙な距離を保ちながら、一台の黒いセダンが、静かにエンジンをかけていた。運転席の男は、サングラス越しに、遠ざかっていく車を見つめながら、助手席の男に短く告げた。
「……動き出した」
助手席の男は、無言で頷いた。セダンは、三人の車と一定の距離を保ったまま、静かに山道へと滑り出した。




