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第57話:夕げ

 美藍が風呂から上がる、ちょうどその頃、玄関の戸が開く音がした。

「ただいま戻りました」

名方の声だった。美藍は濡れた髪をタオルで拭きながら、居間へと顔を出した。

「いやー、さっぱりしました」

名方はさっぱりとした表情で、髪も少し湿り気を帯びている。祖父がその姿を見て、嬉しそうに手招きした。

「おお、ちょうどええところに戻ってきたのぉ。飯にしよう」

座敷には、すでに料理が所狭しと並べられていた。カボチャの煮物、ナスの煮浸し、キュウリとナスの漬物、そして焼き魚まで加わり、食卓は賑やかな彩りに満ちている。

「うわー、すごいご馳走ですね」

名方が目を丸くしながら座布団に腰を下ろすと、祖父はすでにビール瓶を手にしていた。

「まあまあ、中方さんも、一杯どうじゃ」

祖父がコップにビールを注ぐと、名方は恐縮しながらも両手でそれを受けた。

「いやいや、これはこれは……いただきます」

名方はコップを傾け、ぐっと飲み干した。祖父が満足そうに頷く。

「どうじゃ、疲れは取れたかの」

「ええ、おかげさまで。温泉も、料理も、本当にありがたいです」

名方は空になったコップを、今度は自分から祖父へと差し出した。

「一献、返杯させてください」

「おお、これは律儀じゃのぉ」

祖父は上機嫌にコップを受け取ると、名方が注ぐビールを、ゆっくりと味わうように飲んだ。二人のやり取りを、美藍と里奈は座敷の隅で微笑ましく見つめていた。

「なんか、すっかり打ち解けとるばい」

里奈が小声で囁くと、美藍もくすりと笑った。

「お酒があると、早いよね」

祖母が最後の一品――炊きたてのご飯を運んでくると、食卓はようやく全員が揃った。

「さぁ、みんな揃うたけん、いただこうかの」

「「「いただきます」」」

賑やかな声が座敷に響き渡った後、美藍はふと、思い出したように名方に尋ねた。

「名方さん、会社への報告は、どうでした?」

「ああ、美馬の郷土史を深掘りできてる、と伝えといた」

名方はそう答えると、箸を伸ばしてナスの煮浸しを口に運んだ。

「あ、それと」

美藍は、少し声のトーンを落として続けた。

「おばあちゃん、前に三木家の出身って話したでしょ」

「うん、聞いたな」

「さっき聞いたら、お兄さんが……源治さんなんだって」

名方の箸が、ぴたりと止まった。

「えっ……なんだって?」

「そんな事が」

祖母がその反応に、少し驚いた様子で顔を上げた。

「そうなの」

名方はしばらく言葉を失ったように、祖母の顔をまじまじと見つめていた。

「私が駆け出しの頃、源治さんに取材をしていた時……三木家に伝わる文書の一部を、預かりまして」

「まあ……」

「その後、行方不明になったとお聞きし、心配しておりましたが……」

名方の声は、静かだったが、その奥に、これまで美藍が聞いたことのないような、深い感慨が滲んでいた。

祖母は箸を置き、驚いたように名方の顔をまじまじと見つめた。

「そんな記者さんがおられたとは、儂は知らなんだ。……あの頃はもう、粟飯原に嫁いどったけんな。兄とも、そう頻繁には会うとらんかった」

祖母はしみじみと、遠い記憶をたどるように目を細めた。

「最後に会うたんも、剣山に登る少し前じゃった。『調べもんがある』って言うて、えろう張り切っとったのを覚えとる」

座敷に、しばらくの静けさが流れた。祖父もビールのコップを置き、神妙な面持ちで二人のやり取りを見守っている。

美藍は、名方の横顔を見つめながら、胸の奥がざわめくのを感じていた。三十年の時を超えて、思いがけない形で繋がった二人の記憶――それは、これまで積み重ねてきた謎の解明とはまた違う、静かで重い真実だった。

「……源治さんは、どんな方だったんですか?」

美藍が尋ねると、名方はふっと目を細めた。

「熱心な方だった。忌部氏のこと、麁服のこと……そして、剣山のことを、まるで自分の使命のように語っておられた。それと、ユダヤのことを、やけに熱心に聞いてこられたのを覚えている」

「ユダヤ……」

美藍は思わず息を呑んだ。

「……それきり、消息は分からずじまいだ」

名方はそう言うと、静かに箸を取った。

祖母が、その後を継ぐように、静かに口を開いた。

「兄は……昔から、こう、じっとしとれん人での。子供の頃から、山に入ったら日が暮れるまで帰ってこん。何かに夢中になると、他のことは目に入らんようになる、そういう人じゃった」

「へぇ……」

「儂とは歳も離れとったけん、兄妹いうより、ちいと遠い親戚みたいな感じもあったがのぉ。でも、優しい人じゃった。儂が嫁ぐ時も、誰より喜んでくれての」

祖父も、コップを置いて頷いた。

「儂は義兄になるがのぉ……いや、立派な人じゃったよ。学もあって、村のもんからも一目置かれとった。ただ、あの頃から、剣山のことになると、人が変わったように熱心になっての。『あの山には、まだ誰も知らん秘密がある』言うて、儂によう語っとった」

「秘密……」

美藍が呟くと、祖父は少し遠い目をした。

「今思えば、あれが、何かの前触れじゃったんかもしれんのぉ」

座敷に、しばらくの静けさが流れた。それぞれの記憶の中の源治が、少しずつ重なり合いながら、一人の人物として、美藍の中に像を結んでいく。

名方が静かに箸を置き、呟くように言った。

「そうか……源治さんも、剣山に何かを感じていたんですね」

その言葉に、美藍はふと顔を上げた。

「剣山……『剣』っていう字も、よく考えたら、ただの山の名前にしては、ちょっと意味深だと思いませんか」

「意味深?」

里奈が箸を止めて尋ねる。美藍は少し考えを整理するように、ゆっくりと言葉を継いだ。

「表向きには、安徳天皇の宝剣が納められた、っていう伝承があるでしょう。でも……剣って、本来は何かを『守るための刃』でもある。もし、あの山に本当に大事なものが眠ってるなら、『剣』っていう名前自体が、それを守る者たちの象徴だったのかもしれない」

祖父が興味深そうに耳を傾けていた。

「守るための、名前か……」

「うん。まだ、はっきりとは分からないけど」

美藍はそう言うと、それ以上は深追いせず、静かに箸を取った。だが、その胸の内では、明日訪れることになる剣山の姿が、これまでとは違う重みを持って、静かに像を結び始めていた。

美藍はふと視線を上げ、座敷の隅に置かれた、あの藍染めのチューリップハットに目を留めた。立ち上がってそれを手に取ると、指先で生地の色合いを、そっとなぞる。

「おばあちゃん、この藍色って……ただの染料じゃない気がしてきた」

「藍が、どうかしたかいな」

祖母が首を傾げる。美藍は帽子を胸に抱くようにしながら、静かに語り始めた。

「旧約聖書に、『テヘレット』っていう、特別な青の色が出てくるの。大祭司の衣とか、幕屋のカーテンには、必ずこの青い糸を使わなきゃいけないって、厳しく決められてた」

「青い糸……」

「それに、藍染めって、ただ綺麗な色ってだけじゃなくて、虫除けとか、防腐の効果もあるでしょう。麻と藍を組み合わせたら……腐らせずに、大事なものを、ずっと守り続けられる」

名方が静かに、美藍の手の中の帽子を見つめていた。

「阿波の藍と、三木の麻……」

「うん。もし本当に、大事なものをずっと守り続けるための布があったとしたら――麻で織って、藍で染める。それが、一番強い『守り』の形だったんじゃないかな」

美藍は、膝の上の藍色の帽子に、そっと視線を落とした。

「それと……私、自分の名前、すごく気に入ってるの」

「美藍、ちゃん?」

里奈が首を傾げる。美藍は小さく微笑んだ。

「美しい藍って書いて、美藍。生まれた時、お父さんとお母さんが付けてくれた名前なんだけど……こうして、藍染めのことを調べれば調べるほど、なんだか、これが私の使命なのかもって、思えてきて」

「使命……」

「この美しい藍染めと、その中に宿ってる秘密を――ちゃんと守って、伝えていくこと」

美藍はそう言うと、帽子をぎゅっと胸に抱いた。座敷の温かい灯りの下、その藍色が、いつもよりも深く、静かな輝きを湛えているように見えた。

祖母は、その様子を、目を細めてじっと見つめていた。

美藍はふと、思い出したように祖父母の方を向いた。

「そういえば、おじいちゃん、おばあちゃんは……藍染めの仕事に、歌があるの知ってた?」

「歌?」

祖父が意外そうな顔をする。美藍は頷きながら、少し身を乗り出した。

「蒅唄っていって、藍を発酵させる時に歌う、独特のリズムの歌なの。この前、藍染工房に行った時に、実際に聞かせてもらったんだけど……その歌詞の一節、『エラヤッチャ』っていうのが、ヘブライ語の『エル・ヤッシャー』――『神は正しい』とか『神は真っ直ぐ』っていう意味の言葉と、すごく近いの」

「へぇ、そうなんかい」

祖母が感心したように相槌を打った。

「阿波おどりの掛け声、『ヤットサー』も、ヘブライ語で『神の救い』っていう意味に近いんだって。里奈と一緒に聞いた時、二人ともびっくりしたの」

里奈も大きく頷いた。

「うち、自分で気づいた時、鳥肌立ったばい」

祖父は腕を組み、しみじみと呟いた。

「儂らが小さい頃から、当たり前のように歌うとった歌に、そがいな意味があったとはのぉ」

美藍は帽子をそっと膝の上に置き、しばらくその藍色を見つめ続けた。祖母は何も言わず、ただ穏やかに微笑んでいる。

「阿波の人たちが、当たり前のように続けてきた藍染めや麻織り……その一つひとつに、ずっと昔からの祈りが、染み込んでるのかもしれない」

座敷に、しばらくの静寂が流れた。窓の外では、虫の声が夜の訪れを告げていた。

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