第56話:湯浴みの誘い
夕暮れが近づく頃、三人は美馬の祖父母宅へと戻ってきた。玄関を開けると、味噌と出汁の香ばしい匂いが出迎える。
「おかえり。今日はどこまで行ってきたんじゃ」
祖母が台所から顔を覗かせると、里奈が疲れ切った様子で座敷にへたり込んだ。
「種穂忌部神社と、三木家まで行ってきたばい……足がもう、棒みたいになっとる」
「そりゃあ、よう頑張ったのぉ。汗もたんとかいたやろう。先にお風呂に入りんさい」
祖母がそう言うと、美藍はすぐに名方の方を振り返った。
「名方さん、どうぞ先に」
「いえ……」
名方は少し困ったような表情を浮かべ、軽く手を振った。
「さすがに、お宅のお風呂を先に頂くのは、ちょっと遠慮したい。実は、さっき車で来る途中、温泉の看板を見かけたので」
「温泉、ですか?」
「ああ。せっかくだから、そちらで済ませてこようと思う。……ちょうど、社に一度、今日の取材の報告も入れておきたいところだったし」
そう言うと、名方は車のキーを手に取り、玄関へと向かった。
「里奈さんは、遠慮なくお風呂、頂くといい」
「え、ええんですか? じゃあ、お言葉に甘えて……」
里奈が申し訳なさそうにしながらも、疲れた身体には抗えなかったのか、すぐに立ち上がった。
「行ってらっしゃい、名方さん」
美藍が玄関先まで見送ると、名方は軽く手を上げて笑みを浮かべた。
「ああ、行ってくる。……今日は、色々と収穫のある一日だった」
その笑顔はいつも通り穏やかだったが、美藍はふと、車に乗り込む名方の背中に、どこか一人になりたがっているような、そんな気配を感じ取った。
車のエンジン音が遠ざかっていくのを見送ってから、美藍は家の中へと戻った。廊下の奥から、里奈の弾んだ声が聞こえてくる。
「美藍ー、お風呂、めっちゃ気持ちいいばい!」
「今行く」
美藍は小さく笑いながらそう答えたが、里奈が湯船に浸かっている間、自分は台所に立つ祖母の手伝いをすることにした。
「おばあちゃん、何か手伝うことある?」
「おお、ちょうどよかった。この鍋、ちょっと見といてくれるかのぉ」
美藍はエプロンを借りて、祖母の隣に立った。ぐつぐつと煮えるカボチャや大根から、優しい出汁の香りが立ち上る。
野菜を刻む手を動かしながら、美藍はふと切り出した。
「おばあちゃん」
「あぁ?」
「三木にいたときの話って、覚えてる? 子供の頃のこととか」
「あぁ、こまい頃の話は、よー覚えとる。昨日の話は、さっぱりじゃが」
「ははは」
「あはは」
二人で笑い合った後、美藍は包丁を置き、少し声を落として尋ねた。
「でね……三木家に、何か言い伝えとか、なかった?」
祖母は鍋をかき混ぜる手を止め、しばらく宙を見つめていた。
「言い伝え、のぉ……」
「うん。小さい頃、誰かから聞いたこと、何でもいいから」
祖母は少し考え込むように、菜箸を置いた。
「そういえば……儂が嫁に来る前、まだ小さかった頃、婆さまによう言われとったことがある」
「なに?」
「『三木の者は、剣山を守らなならん』ゆうてな」
美藍は思わず、包丁を持つ手を止めた。
「剣山を、守る……?」
「ああ。それと、もう一つ。『家を出る時は、必ず麻の物を一つ、身につけていけ』ともな。ほら、三木家は麻を栽培しとるじゃろ。子供心に、なんでかいなぁ思うとったが、婆さまがあんまり真剣な顔で言うけん、ずっと守っとった」
その言葉を聞いた瞬間、美藍は、はっとした。
視線が、さっきまで自分が被っていた、あの藍染めのチューリップハットへと吸い寄せられる。座敷の隅に、無造作に置かれたままだった。
美藍は立ち上がり、それをそっと手に取った。
「おばあちゃん……まさか」
「あぁ、それも麻じゃ」
祖母はこともなげに答えた。
美藍は帽子の裏地に、そっと指を這わせた。柔らかいけれど、しっかりとした独特の張り――シャリ、とした涼しげな感触が、指先に伝わってくる。
(これ……)
胸の奥が、静かに高鳴った。祖母が何気なく差し出してくれたこの帽子もまた、代々受け継がれてきた習わしの、ほんの小さな欠片だったのかもしれない。
「他にも、麻でできたもの、色々あるの?」
「あるよ。手ぬぐいも、座布団のカバーも、たいてい麻じゃ」
祖母は何でもないことのように答えたが、美藍の中では、それが途方もない意味を持って響いていた。
「他には……何か、もっと具体的な話とか」
「うーん……あとは、もう、こまいことしか覚えとらん。ただ、儂が三木の家を出る時、婆さまが最後に、こう言うたんじゃ」
祖母は目を細め、遠い記憶をたぐり寄せるように、ゆっくりと言葉を継いだ。
「『これから先、家から離れても、剣山の方角だけは、忘れんとってな』……ってな」
美藍はしばらく、言葉が出なかった。ただの田舎の迷信、と片付けてしまうこともできる。けれど、これまで辿ってきた道のりを思えば、そのひとことひとことに、途方もない重みが宿っているように感じられた。
「おばあちゃん……」
「なんじゃ、そがいに真剣な顔して」
祖母は笑いながら、再び鍋をかき混ぜ始めた。
「まあ、昔の年寄りの言うことじゃ。深く考えんでもええ」
美藍はしばらく黙って鍋を見つめていたが、ふと、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「それと……おばあちゃんに、兄弟は、おらんかった?」
「おるよ。兄が二人」
祖母はこともなげに答えた。だが、その直後、手元の菜箸を持つ指が、ほんのわずかに止まった。
「一人は……剣山へ登ったきり、戻って来んようになっての」
美藍は、その言葉に息を呑んだ。
「戻って来なかった……って」
「もう、三十年近くも前の話じゃ。あの頃はもう、儂も粟飯原に嫁いどったし……正則も、大学生ぐらいじゃったかのぉ」
祖母の声は、努めて淡々としていたが、その奥に、長い年月をかけてもなお癒えない何かが、静かに横たわっているように、美藍には感じられた。
「捜索とか、しなかったの?」
「したさ。山狩りまでしたけんど……何も見つからんかった。今でも、あの山のどこかに眠っとるんじゃろうなぁ、思うとる」
台所に、しばらくの静寂が流れた。鍋の湯気だけが、ゆらゆらと立ち上っている。
美藍の脳裏に、名方から聞いた話――三木家の当主が「剣山に登る」と言って出かけたきり、消息を絶ったという証言が、鮮やかによみがえった。
(まさか……おばあちゃんのお兄さんが、その人……?)
その考えが浮かんだ瞬間、美藍は思わず息を詰めた。だが、それを今すぐ確かめる勇気は、まだ持てなかった。
「おばあちゃん……そのお兄さんの、お名前は?」
祖母は、少し驚いたように美藍を見た。
「名前かい? ……源治。三木源治じゃ」
美藍は、その名を聞いた瞬間、指先まで冷たくなるような感覚に襲われた。名方の口から、何度も語られてきたその名前――三木家の当主、源治。それが、まさかこんなにも近い場所、祖母の記憶の中に、生きていたとは。
「源治……おじいさん」
美藍は、その名を、そっと口の中で繰り返した。
台所の湯気の向こうで、祖母は何も知らないまま、また静かに菜箸を動かし始めていた。
美藍はしばらく黙り込んでいたが、鍋から漂う出汁の香りに、ふと気を取り直すように顔を上げた。
「うわー、美味しそう」
「もうすぐ出来るけんな」
「おばあちゃん、今度、作り方教えてね」
美藍が甘えるように言うと、祖母は目を細めて、いとおしそうに孫の横顔を見つめた。
「ええよ。今度、ゆっくり教えたるわ。……美藍がこうして台所に立ってくれると、なんや、嬉しいのぉ」
祖母は懐かしそうに笑いながら、鍋の火加減を確かめた。
そこへ、湯上がりの里奈が、髪をタオルで拭きながら顔を出した。
「お先にいただきました。ふぁー、生き返ったばい」
「うわー、美味しそう」
里奈も鍋を覗き込み、目を輝かせる。祖母が笑いながら、美藍の背中を軽く押した。
「美藍、早よ入っておいで」
「え、でも……」
「里奈が手伝います!」
里奈がすかさず名乗りを上げ、美藍からエプロンを受け取るようにして代わった。
「ええから、ええから。美藍もさっぱりしてきんさい」
祖母に促され、美藍は苦笑いを浮かべながら、風呂場へと向かった。
台所には、里奈の元気な声と、祖母の穏やかな笑い声が、いつまでも響いていた。
「あなた、気をつけてくださいね。もう若くないんですから」
「ああ……でも、行かなければ」
「くれぐれも、無理はしないでくださいね」
「分かってる」
「……あの話をしないまま、亡くなったりされては困りますからね」
「縁起でもないことを言うなよ。ちゃんと話すまでは、簡単にはなくならん」
「じゃあ、行ってくる」
「はい」




