第55話:三木家住宅
境内の縁側のような石段に、三人は並んで腰を下ろした。里奈が両脚を投げ出すようにして、大きく息をつく。
「はぁー……疲れた」
「本当に、よく登ったな」
名方も肩を回しながら、額の汗を拭った。空を見上げると、雲の切れ間から、わずかに光が差し込み始めている。
「まだ時間、あるけど……どうする?」
名方が二人に問いかけると、美藍はしばらく考え込んでから、リュックの中の地図をもう一度取り出した。
「うん……ここ」
美藍が指し示したのは、種穂山からそう遠くない山中の一点だった。
「三木家の資料館に、行っても……」
その名前を聞いた瞬間、名方の表情がわずかに動いた。しかし、それはすぐに、いつもの落ち着いた顔に戻っていく。
「あぁ、分かった。分かった」
名方は素早く頷くと、立ち上がって膝の埃を払った。
「行こう。……まだ、日があるうちに」
里奈だけが、二人のやり取りに少し置いていかれたような顔をしながら、慌てて腰を上げた。
「え、三木家って……美藍が調べとる、あの三木家?」
「うん。麁服を今も調進してる、あの一族の資料館」
美藍はそう答えながら、胸の奥で小さく鼓動が速くなるのを感じていた。
三木家住宅は、美馬市木屋平の山中、剣山へと続く道の途中にひっそりと佇んでいた。茅葺き屋根の重厚な佇まいは、周囲の緑に深く馴染みながらも、どこか近寄りがたい威厳を放っている。
「これが……三木家」
美藍は門の前で立ち止まり、しばらく建物を見上げていた。
「十七世紀初頭の建築、って書いてある。徳島県下で最古級の民家なんだって」
館内に入ると、太い梁が幾重にも交差する天井が、三人を見下ろしていた。低い鴨居、分厚い柱――ただの農家とは明らかに異なる、格式高い造りだった。
「この間取り……普通の民家じゃないな」
名方が呟く。美藍も頷きながら、展示パネルの説明を読み上げた。
「神官や、京からの勅使を迎えるための部屋が、ちゃんと確保されてる。麻を織るための特別な空間もあったみたい」
太い柱の影が、天井の高いところで複雑に交差している。美藍はふと、その柱組を見上げながら呟いた。
「なんだか……神殿の柱組みたいだね」
奥の展示室に進むと、ガラスケースの中に、白装束をまとった人々が手織り機に向かう、古い写真が飾られていた。
「これが……麁服の調進」
美藍はガラスに顔を近づけた。写真には、麻の種を撒く「種蒔祭」、収穫を祝う「刈取祭」、そして厳格な潔斎を経て、一本の狂いもなく麻を織り上げていく人々の姿が、時代を超えて何枚も並んでいた。
「大正、昭和、平成……令和の代まで、ずっと」
「千年以上、ということか」
里奈はガラスケースに顔を近づけ、写真をまじまじと見つめた。
「なぁ美藍、素朴な疑問なんやけど……なんで麻でないとダメなん? 綿とか、絹とかじゃ、いかんと?」
「あ、それ、私も最初不思議だった」
美藍はノートを取り出し、里奈に向き直った。
「麻って、実はすごく特別な植物なの。まっすぐ、丈夫に育つし、清浄なものとされてきた。神道でも、お祓いに使う道具――大麻って、名前からして『麻』の字が入ってるでしょう。穢れを祓う力があるって、昔から信じられてきたの」
「へぇ……」
「それに、絹は虫(蚕)から作るし、綿も加工に手間がかかる。麻は、真っ直ぐ天に向かって伸びる植物そのものが、『神と人を繋ぐ道』の象徴になったんじゃないかな。旧約聖書でも、神殿の幕は最上級の麻で織るよう、厳しく決められてたらしいし」
里奈は感心したように、もう一度写真を見つめた。
「じゃあ、麻を育てて、織ることそのものが……神事、いうことなんやね」
「うん。だからこそ、天皇の即位の時にしか使われない『麁服』は、今でも麻で織られてる。何百年経っても、変わらずに」
名方が静かに言葉を継いだ。
「千年以上、ということか」
美藍はガラスケースの中の記録を、指でそっとなぞった。
「これが『麁服』……。天皇の即位という、国家最高位の神事の鍵を、なぜ阿波の山奥の一族が、こんなにも長く握り続けてきたのか」
美藍の声は、ほとんど独り言のようだった。
さらに奥のコーナーには、古い文書の写しと、簡単な系図が展示されていた。解説には、南北朝や戦国時代の権力者たちとのやり取り、そして剣山周辺に伝わる平家の落人伝説についての記述もあった。
「平家の落人が、剣山に逃げ延びた……っていう話、聞いたことある」
里奈が展示を覗き込む。美藍はしばらくその文字を見つめた後、小さく首を振った。
「……でも、これを見ると、話が逆な気がしてきた」
「逆?」
「表向きの歴史では『平家の落人が隠れ潜んだ地』ってされてる。でも、忌部と三木家が、もともとこの山を不可侵の聖域として管理してたからこそ、誰も追ってこられなかったんじゃないかな。落人たちが選んだんじゃなくて、この土地そのものが、最初から『隠れるための場所』として機能してた」
名方は何も言わず、展示ケースの奥、薄暗がりの中の古文書へと視線を向けていた。その手が、無意識のうちに、もう片方の手首――ブレスレットのある方を、そっと服の袖で覆うように動いていた。
美藍はその仕草に気づかなかった。ただ、これまで積み重ねてきた考察が、この場所で一つの重みを持って形になっていくのを、静かに感じていた。
「忌部が、神殿の構造――磐境を作った。阿曇が、海を渡って人と技術を運んだ。そして三木家は、この山奥で……神と王を繋ぐ、聖なる麻の技術と血脈を、何千年も守り通してきた」
その言葉が、静まり返った館内に、静かに染み込んでいった。
美藍はふと、名方の横顔を見上げた。
「そういえば……名方さん、前に言ってましたよね。三木家の人から文書を預かって、専門家に預けたって」
「ああ、覚えていてくれたか」
名方は静かに頷いた。美藍はふと、船盡比賣神社で見た神代文字の幟を思い出していた。
「あの時読めなかった記号……ここに来て、何か思い出したりしませんか?」
その問いに、名方は一瞬、答えに詰まったように黙り込んだ。館内の薄暗い明かりが、彼の横顔に静かな陰影を落としている。
「……分からない。ただ」
名方は展示ケースの奥、古い文書の写しへと、もう一度目を向けた。
「懐かしい、ような気がする。まるで、ずっと昔に一度、来たことがあるような」
美藍はその言葉に、かすかな違和感を覚えたが、それを口には出さなかった。




