第53話:忌部神社にて
長い石段を上り切ると、木立が不意に開け、静けさに満ちた境内が三人を迎えた。
「……着いた」
里奈が息を弾ませながら呟く。社殿は思いのほか小さく、しかし手入れの行き届いた清らかな佇まいをしていた。周囲を囲む杉の巨木が、まるで結界のように境内を包んでいる。
美藍はゆっくりと歩を進め、拝殿の前で足を止めた。掲げられた神紋に目を凝らす。
「これ……三つ巴じゃない」
「え?」
「よく神社にある巴紋とは、ちょっと違う。麻の葉を意匠化したような、幾何学的な紋様」
名方も近づいて紋を見上げた。
「確かに……忌部氏らしい紋だな」
美藍はリュックから、これまで集めてきた資料の束を取り出し、社殿の配置を実際の建物と見比べ始めた。
「本殿の向き……真南じゃない。少し西に傾いてる」
「それがどうしたと?」
「磐境神明神社の幕屋の向きと、同じ角度なの」
里奈が息を呑む。美藍は資料をめくりながら、興奮を抑えきれない様子で続けた。
「つまり、磐境と忌部神社――この二つの聖域は、同じ設計図に基づいて配置されてる。バラバラの神社に見えて、実は一つの大きな意図で結ばれてる」
そのとき、社務所の脇に置かれた小さな案内板に、美藍の目が留まった。近づいて読み込むと、そこには氏子総代や神社に縁のある家々の名が、古い時代から連綿と刻まれていた。
「……あった」
「何が?」
美藍の指先が、案内板の一角で止まっている。
「『三木』の名前。江戸時代から、この神社の重要な祭祀を代々担ってきた家として、記録に残ってる」
名方が息を詰めて覗き込んだ。
「麁服を調進する三木家と、同じ一族か?」
「たぶん……ううん、間違いない。麻を扱う忌部の祭祀と、麁服を調進する三木。この神社が、二つの家を繋ぐ結節点だったんだと思う」
美藍は案内板の文字を、指でそっとなぞった。自分の中に流れているかもしれない血の記憶が、この古い板の中に刻まれているという実感が、じわりと胸に広がっていく。
「私が、この一族に連なる者だとしたら……」
その先の言葉を、美藍は飲み込んだ。里奈がそっと肩に手を置く。
「大丈夫ばい、美藍。ゆっくり、確かめていけばいい」
社殿の奥から、風が一陣、木々を揺らして吹き抜けた。名方は案内板を覗き込んだまま、しばらく無言だった。
美藍はそれに気づかないまま、しばらく境内を見渡していた。やがて小さく頷き、独り言のように呟く。
「うん……やっぱり」
「何がだ?」
美藍は答えず、ただ社殿の柱や瓦、真新しい賽銭箱の金具を、もう一度確かめるように見つめていた。
三人は拝殿に手を合わせると、来た道を戻り、石段を下り始めた。
「さぁ、お昼でも食べに行くか」
名方が石段を下りきったところで振り返る。美藍はしかし、その場に足を止めたままだった。
「ちょっと待ってもらえませんか」
「ん? なんだ、トイレか」
「どうしたの?」
里奈も心配そうに顔を覗き込む。美藍は振り返り、今降りてきたばかりの石段の先――木立に隠れた社殿の方角を見つめた。
「この忌部神社……少し、手が入りすぎてる気がするの」
「手が入りすぎ?」
「磐境神明神社は、もっと荒々しかった。手つかずの石組みが、そのまま残ってた。でも、ここは違う。まるで、誰かが意図的に整備して、『これが忌部神社です』って、分かりやすく見せてるみたいな」
美藍はリュックから地図を取り出し、広げて指し示した。
「それでね、私は――ここだと思ってる」
「種穂忌部神社?」
名方が地図を覗き込み、地名を読み上げる。美藍は頷いた。
「うん。こここそが、忌部神社の本当の姿なんじゃないかって」
美藍は地図を持ったまま、二人に向かって説明を始めた。
「種穂忌部神社。吉野川市山川町、種穂山にある神社。阿波忌部氏の祖神・天日鷲命が、天磐船に乗って最初に降臨したと伝えられてる場所。麻や五穀の『種』を携えてきて、そこから阿波全体、さらに全国へと広めていった――麁服の、本当の源流」
「なるほど……」
「それに、明治時代には『忌部神社論争』っていうのがあって。延喜式に載ってる正式な忌部神社がどこなのか分からなくなって、徳島県内で大きな争いになったの。候補に挙がったのが、この種穂忌部神社と、さっき私たちがいた神社。でも最終的に、明治政府は徳島市の眉山に、まったく新しい忌部神社を作って、そこで決着させてしまった」
里奈が息を呑んだ。
「じゃあ、さっきの神社は……」
「たぶん、目を逸らすための場所。本物の聖地――種穂山から人々の関心を逸らすための、カモフラージュ」
名方はしばらく黙って地図を見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「分かった。今から向かおう」
美藍は地図を丁寧に畳みながら、ふと思い当たった。
(ひょっとして……教授が隠してた、あの忌部家の郷土史の一冊。あれにも、このことが書かれてたのかもしれない)
その考えを胸の内にしまい込み、美藍はリュックを背負い直した。
「行きましょう。種穂忌部神社へ」
三人は車に乗り込み、種穂山を目指して走り出した。
車中、美藍はスマホで種穂忌部神社について調べた資料を、二人にも見えるように差し出した。
「種穂忌部神社、山頂近くにあって、車では入れないみたい。晴れた日は阿讃山脈や吉野川、遠くは淡路島まで見渡せる景勝地なんだって」
「へぇ、それは楽しみばい」
「参道には杖が置かれてて、『ここから神域』っていう立て札もあるらしい。石垣に囲まれた椿の木が、驚くほど大きく育ってて、春に行くと落ちた花びらがすごく綺麗みたい」
名方がハンドルを握りながら、ちらりとスマホの画面に目をやった。
「原生林も残ってるようだな」
「うん。プラタナスとか、粗樫、白ダモ、野茨、楓、姫榊、ブナの木……名前は聞いたことあっても、実物なんて見たことないような木がたくさんあるって。鳥のさえずりを聞きながら登ると、色々発見があるらしいよ」
「基本的に登山、ということか」
「うん。車で頂上まで行くのは無理みたい。途中の路肩に車を停めて、そこから先はずっと徒歩」
里奈が窓の外に流れる山並みを眺めながら、少し緊張した面持ちで呟いた。
「今日は、忌部神社の石段よりもっと歩くってことやね」
「たぶん。でも……そこに、きっと何かがある気がするの」
美藍はスマホをしまい、まっすぐ前方の山を見据えた。




