第52話:忌部の名を持つ社
磐境神明神社を出た車は、再び山道を下り、そこからさらに東へと進路を取った。
「忌部神社までは、あとどれくらいですか?」
助手席の美藍が尋ねると、名方はハンドルを握ったまま、ちらりとナビ画面に目をやった。
「もうすぐだ」
車内には、先ほどの磐境神明神社で交わした会話の余韻が、まだ色濃く残っていた。里奈は窓の外を眺めながら、ぽつりと呟く。
「忌部神社……教授と同じ名前の神社に行くって、なんか変な感じばい」
「うん。私も、正直……ちょっと緊張してる」
美藍は膝の上でノートを開いたまま、ページをめくる手を止めていた。
「教授、畿内説を唱えてる人だから。もし本当に阿波忌部氏の末裔なら、この神社にどんな思いで向き合ってきたんだろうって、考えちゃって」
「教授とこの神社、何か関係あると?」
「分からない。でも……忌部っていう名前自体が、そもそも阿波忌部氏に由来してるはず。単なる偶然の苗字とは思えないの」
名方は前を見つめたまま、しばらく無言だった。信号もない山道に、車のエンジン音だけが響く。
「名方さんは、この神社に来たことは?」
美藍がふと尋ねると、名方は一瞬、間を置いてから答えた。
「……取材で、一度だけな」
「どんな取材だったんですか?」
「阿波忌部氏の史跡巡り、という企画だった。もう五年ほど前になる」
「その時、何か印象に残ったことは?」
名方はハンドルを軽く握り直した。
「――静かな場所だった、ということくらいだな」
その答え方に、美藍はほんのわずかな違和感を覚えた。五年も前の取材にしては、あまりにそっけない。まるで、それ以上語ることを、意識的に避けているような。
美藍が言葉を続けようとしたとき、名方のポケットの中でスマホが震えた。名方はちらりと画面を確認し、すぐに伏せた。
「……仕事の連絡か何かですか?」
「いや、大したことじゃない」
その声には、いつもの飄々とした調子とは違う、わずかな硬さがあった。里奈が後部座席から、それとなく前の二人の様子を窺っている。
やがて車は細い脇道へと入り、木々に囲まれた駐車スペースへと停まった。
「着いたぞ。ここからは、歩きになる」
車を降りると、目の前には石段が、木々の間を縫うように上へ上へと続いていた。頂上は木立に隠れて見えない。
「うわぁ……結構、上るばい」
里奈が石段を見上げて肩をすくめる。美藍はリュックを背負い直しながら、由緒書きに目を通した。
「御祭神、天太玉命。忌部氏の祖神を祀る、忌部神社――」
美藍はそこで顔を上げ、石段の先を見つめた。
「教授と同じ名前を持つ、この神社で……何が待ってるんだろう」
蝉の声が、山全体を包み込むように響いていた。名方が一歩、石段に足をかける。
「行くか」
その声は、いつも通りの穏やかなものに戻っていた。しかし美藍は、先ほどの硬さの残滓を、まだどこかに感じ取っていた。
石段は思った以上に長く、蝉時雨の降り注ぐ木立の中を、三人はゆっくりと上っていった。
三十段ほど上ったところで、後ろから聞こえる息遣いが徐々に荒くなっていく。
「はぁ……はぁ……」
振り返ると、名方が手すり代わりの石垣に手をつき、息も絶え絶えといった様子で階段を上ってくるところだった。
「名方さん、大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫だ……普段、車移動ばかりだからな」
「記者さんって、もっと体力あるイメージやったばい」
里奈がからかうように言うと、名方は苦笑いを浮かべながらも足を止めずに上り続けた。
美藍は先を歩きながら、ふと足を止めて振り返った。
「名方さん、休憩がてら、聞いてほしいことがあるんですけど」
「何だ……はぁ……」
「忌部氏が本当に守ってきたものって、麻・鉄・朱の三つだって前に話したでしょう。でも今日、磐境神明神社で幕屋の話をしてて、改めて気づいたことがあって」
美藍は石段の途中で立ち止まり、リュックから資料を取り出した。
「大麻比古神社って知ってる? 鳴門にある、阿波国一宮」
「名前くらいは……はぁ……知ってる」
「あそこの主祭神、大麻比古大神っていうんだけど、これ、忌部氏の祖神――天太玉命のことなの。天照大神が天の岩戸に隠れた時、八尺瓊勾玉や八咫鏡を木にかけて、麻の織物を捧げて祭祀を取り仕切った神様」
「麻の織物……」
里奈が呟く。美藍は頷いた。
「忌部氏の祖・天富命が、この吉野川流域に麻や楮を植えて開拓したのが始まり。それが全国に広がって、後の安房国――今の千葉県の名前の由来にもなってる。そして何より、天皇の即位の儀式、大嘗祭で献上される麁服。あれの源流が、この大麻比古神社なの」
美藍は石段を見上げ、木立の向こうにまだ見えない忌部神社の方角を見つめた。
「麻って、単なる植物じゃないと思う。古代において、神と交信して、邪気を祓って、王の即位を証明するための、最高等級の神聖な媒体だった。……幕屋の幕も、アークを覆う布も、全部『上質な麻』で織られてたはず」
名方がようやく息を整え、二人のそばに歩み寄ってきた。
「つまり?」
「忌部氏が阿波で守り続けてきたのは、神殿の構造――磐境だけじゃない。アークを覆って、神に捧げるための、『聖なる麻の技術』そのものだったんじゃないかって」
蝉の声がひときわ大きく響く中、美藍は資料を胸に抱え、再び石段を上り始めた。
「今も、三木家がその麁服を調進してる。……もし本当に、私が三木の血を引いているなら」
その先を、美藍は言葉にしなかった。里奈が心配そうにその横顔を見つめる。
名方は、ふと自分の手首のブレスレットに視線を落としてから、再び石段に足をかけた。
「行こう。忌部神社は、もうすぐだ」
三人は、蝉の声に包まれた石段を、頂上に向かって上り続けた。




