第50話:祖母の煮物
美馬の父の実家に着いた頃、朝の日差しはすでに強さを増し始めていた。田んぼの緑と、遠くに霞む剣山の稜線が車窓に映る。
「さぁー、もうすぐ着くぞ」
名方がハンドルを切りながら言うと、後部座席で船を漕いでいた里奈が、むくりと顔を上げた。
「ふぁーーい」
「お疲れ様でした」
美藍が助手席から振り返って笑う。里奈は目をこすりながら、窓の外の景色に「うわぁ、山が近いばい」と声を上げた。
「さぁ、着いたぞ」
名方が車を停めると、玄関先にはもう祖父母が出て待っていた。
「おばあちゃん、おじいちゃん」
美藍が車を降りるなり駆け寄る。祖母が皺だらけの顔をくしゃりとほころばせた。
「おー、よう来てくれたのぉ。朝早うからご苦労さんじゃったのぉ」
「ささ、あがって、あがって」
「2日間、お邪魔いたします」
名方が丁寧に頭を下げる。里奈も慌てて続いた。
「よろしくお願いいたします」
「ささ、挨拶はいいけん。あがらんかえ」
祖父が笑いながら手招きする。
「今、麦茶入れるけんのぉ」
「あ、おばあちゃん、ありがとう。でも、麦茶飲んだら、すぐに出かけるから」
「そうなんかー、うん」
「戻ってくるのは夕方になるからね」
「今日は何が食べたい?」
祖母がコップを並べながら尋ねると、祖父が顎に手を当てた。
「若いから焼肉かのぉ」
「ううん、おばあちゃんの煮物が食べたい。カボチャやナスの……あ、キュウリとナスの漬物も」
「そんな田舎料理、若いのは食べんじゃろ」
「いえ、私は親元を離れて暮らしてるけん、煮物が食べたいです」
里奈がすかさず言うと、祖母が目を丸くした。名方も続ける。
「私は一人やもめなもんで、家庭料理に飢えてますから。むしろこの上ないご馳走です」
「そんなもんかのー」
「ね、おばあちゃん、いつもの料理作って欲しいの」
美藍が甘えるように両手を合わせると、祖母はようやく相好を崩した。
「しゃあないのぉ。ほな、夕方までに支度しとくけん、気ぃつけて行ってきんさい」
「うん、ありがとう」
冷たい麦茶を一口飲むと、美藍はもう腰を浮かせていた。窓の外には、忌部神社へと続く緩やかな坂道が見えている。今日一日で、磐境神明神社と忌部神社を巡り、明日はいよいよ剣山の山頂を目指す。
「じゃあ、行ってきます」
里奈はすでに登山用のハットを目深にかぶり、名方も同じようなつば広の帽子を手に取って玄関を出ようとしていた。二人の様子を見て、祖母が美藍の格好をまじまじと見て、眉をひそめた。
「なんじゃ美藍、帽子も被らんと」
「そーなのー、準備してたのに、玄関のクツ箱に置いてきちゃった」
「まったく、しゃあない子じゃのぉ」
祖母はそう言いながら奥へ引っ込むと、ほどなくして何かを手に戻ってきた。
「うちには、こんなんしかなかけん」
差し出されたのは、藍色に染められたチューリップハットだった。
「え、かわいい。借りていい?」
「ああ、よかよか」
美藍は嬉しそうにそれを頭に乗せた。藍染めの柔らかな布地が、登山用のハットとはまた違う、どこか懐かしい風合いを醸し出している。
「行ってらっしゃい。暗うなる前に戻ってきんさいよ」
祖父母に見送られ、三人は再び車に乗り込んだ。名方がエンジンをかけながら、ちらりとバックミラー越しに二人を見る。
「では――磐境神明神社へ」
強くなり始めた夏の日差しの中、車は緩やかな坂道を上り始めた。剣山はまだ遠く、青く霞んで見えるだけだったが、美藍の胸には、確かな高鳴りがあった。




