第49話:出発の朝
夏の朝、まだ少し涼しさの残る時間に、名方の車が美藍の家の前に停まった。車内には、すでに里奈の姿もある。
「おはようございます」
玄関を出た美藍が声をかけると、名方が窓を開けて手を挙げた。
「おはよう。準備はいいか」
「はい、バッチリです!」
美藍がリュックを背負い直しながら答えると、玄関から、みやこの姿も現れた。
「おはようございます、名方さん、里奈さん」
「おはようございます、みやこさん」
名方が丁寧に頭を下げると、みやこは、手にしていた大きな包みを差し出した。
「これ、お三人の分のおにぎり弁当です。よろしくお願いいたします」
「わざわざ、すみません」
名方は恐縮したように受け取ると、包みを大切に助手席の足元に置いた。
「お気遣い、ありがとうございます」
後部座席の窓から、里奈も顔を出した。
「えー、嬉しいです! お母さん、ありがとうございます」
「気をつけてね」
みやこは、そう言って微笑むと、もう一つ、小さな紙袋を美藍に手渡した。
「それと、これ。美馬のおばあちゃんに、お土産として渡してくれる?」
「うん、分かった」
美藍は、紙袋を大切に受け取ると、助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。……本当に、気をつけてね」
みやこの声には、いつもより少しだけ、力がこもっているように感じられた。美藍は、その声に小さく頷き返すと、シートベルトを締めた。
「では、まずは美馬の、ベースキャンプ――おばあちゃんの家へ向かいます」
名方がそう言うと、車はゆっくりと発進した。窓の外で、みやこが小さく手を振っているのが見えた。
車は吉野川沿いの道を、西へと進んでいく。夏の朝の光が、川面にきらきらと反射していた。
「今日から、いよいよだな」
名方が、前を見たまま呟いた。
「はい」
後部座席では、里奈が早速、おにぎりの包みを開けていた。
「わあ、美味しそう。いただきまーす」
里奈は嬉しそうに一つ頬張ると、もぐもぐと満足げに咀嚼した。
「みやこさんの作るおにぎり、優しい味がするとよ」
「でしょう? 私も、昔から好きなんだ」
美藍が振り返って微笑むと、里奈は、二つ目のおにぎりを食べ終えたところで、ふわぁ、と大きなあくびをした。
「ふぁ……。ちょっと、目、閉じるね……」
そう言うが早いか、里奈はシートに深くもたれかかり、あっという間に、規則正しい寝息を立て始めた。
「はやっ……」
美藍は、思わず苦笑した。
「昨日、遅くまで準備してたみたいですから」
「若いっていいな」
名方も、笑いながら、そう呟いた。
「名方さんも、食べます?」
美藍が、おにぎりの包みを差し出すと、名方は片手をハンドルから離さないまま、頷いた。
「ああ、後でもらう。……まずは、道を確認しないとな」
美藍は頷くと、膝の上でスマホを操作し、地図アプリを開いた。今日一日の行程を、改めて確認していく。
「うーん……。よし、このルートにしよう」
美藍は、画面に表示されたルートを、指でなぞりながら呟いた。磐境神明神社、そして忌部神社――今日一日で回る予定の道筋が、画面の中に、静かに浮かび上がっている。
ふと、視線を上げた美藍の目に、ハンドルを握る名方の手首が、映った。使い込まれた水晶の珠が連なるブレスレットが、朝の光を受けて、鈍く光っている。それぞれの珠の表面には、小さな星の模様が、細かく刻まれていた。
「そういえば、名方さん」
美藍は、何気なく口を開いた。
「そのブレスレット、いつも綺麗だなと思って見てましたが……。ほんと素敵ですね。星も入ってて」
名方の手に、ほんの一瞬、力がこもったのが分かった。
「……ああ、これか」
名方は、前を見たまま、静かに答えた。
「もう、随分長く、着けてるものでな」
「どこで買ったんですか?」
「……さあな。もう、忘れちまった」
「そうなんですね」
美藍は、それ以上気にすることなく、軽く相槌を打った。窓の外に視線を移すと、車窓を流れる景色が、朝の光の中で、きらきらと輝いていた。
車は、夏の朝日を浴びながら、美馬への道を、静かに走り続けていた。




