第47話:粟飯原という名前
「お父さん、そんな研究してたんだ……」
美藍は、しばらくの間、その事実を噛み締めるように呟いた後、ふと顔を上げた。
「うん……。明日、大学、行ってみよう」
翌日、美藍は大学へと向かい、教授の研究室の扉をノックした。
「入れ」
「失礼します」
美藍は、鞄から一枚の紙を取り出しながら、机の前に立った。
「教授、これ、剣山の登山の工程表です。一応、事前にお伝えしておこうと思って」
教授は、その紙を受け取ると、一通り目を通した。
「そうか」
短くそう答えると、教授は紙を机の脇に置いた。
「私も、今日の午後から、夏休みに入る。二、三日、ここを離れるからな」
「分かりました」
美藍は頷きながら、ふと思い出したように付け加えた。
「あ、それと……。卒業生の論文って、閲覧できますか?」
「ああ、図書館に、年代別に保管してある。司書に尋ねると、教えてくれるだろう」
教授は、そう答えながら、何気なく尋ねた。
「で、いつの論文を探しているんだ」
「あぁ……」
美藍は、少し照れくさそうに答えた。
「私の、お父さんなんです」
「布都?」
「あぁ、うちのお父さん、養子に入ったんで……。旧姓は、粟飯原なんです」
「……粟飯原?」
教授の声が、ほんのわずかに、変わった。
「え?」
美藍は、思わず教授の顔を見た。
「教授……。ご存知なんですか?」
「あぁ」
教授は、それだけ答えると、しばらくの間、何かを思い出すように、視線を宙に泳がせた。
「……珍しい名前なんでな。記憶がある。どういった研究をしてたかまでは、忘れたが」
「そうなんですね……」
美藍は、それ以上深くは考えず、素直に頷いた。
「そうか。君は……」
教授は、静かに、確かめるように言葉を継いだ。
「粟飯原君の、娘か」
「はい」
「……道理で」
教授が、ぽつりと、小さく呟いた。
「え? 何か?」
美藍が聞き返すと、教授は、はっとしたように、表情を戻した。
「いや」
教授は、それだけ答えると、再び手元の書類に視線を落とした。
「気をつけて、行くんだぞ」
その声には、これまでとは違う、どこか重みのある響きが、確かに込められていた。
美藍は、その一瞬の変化に、何か言いようのない違和感を覚えながらも、静かに一礼し、研究室を後にした。
研究室を出た美藍は、教授の反応が、どうしても頭から離れなかった。
(珍しい名前、だけじゃない気がする……。道理で、って、一体何が"道理"だったんだろう)
美藍は、その違和感の答えを探すように、その足で図書館へと向かった。
カウンターに座る司書に、美藍は少し緊張しながら声をかけた。
「あの、すみません。卒業論文の閲覧をお願いしたいんですが」
「はい、何年度のものですか?」
「えっと……。二千年卒業の分です」
「少々お待ちください」
司書は、書庫の奥へと入っていくと、しばらくして、美藍を書庫の一角へと案内した。
「この辺りの棚に、その年度の論文がまとまっています。学部・学科ごとに並んでいますので、探してみてください」
「ありがとうございます」
美藍は、丁寧に礼を言うと、棚の背表紙を、一つずつ確認し始めた。
「えー……。粟飯原、粟飯原……」
美藍は、指で背表紙をなぞりながら、その名前を探していく。夏休みの図書館は静まり返っていて、自分の呟く声だけが、やけに大きく聞こえた。
「あ……。あった」
美藍は、一冊の薄い論文集を、そっと棚から抜き取った。表紙には、色褪せた文字で、確かにその名前が記されている。
――粟飯原正則
美藍は、その場に立ち尽くしたまま、しばらくの間、表紙をじっと見つめていた。若い頃の父の名前が、こんな形で、こんな場所に残っていたことに、不思議な感慨が込み上げてくる。
美藍は、そっと表紙をめくった。タイトルの文字が、目に飛び込んでくる。
『四国地方における大陸系ゲノム比率の予備的考察』
美藍は、その文字を、何度も、口の中で繰り返した。
「本当に、あったんだ……」
美藍は、その論文集を大切に抱えると、閲覧席へと向かった。窓から差し込む夏の光の中、美藍は静かに、ページをめくり始めた。
家に帰り着くと、美藍はリビングにいた正則に、早速声をかけた。
「お父さん、今日、卒論読んだよ」
「えっ……。もう、読んだのか」
正則は、少し驚いたように、そして気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「恥ずかしいな、あんな学生時代の拙い論文」
「そんなことないよ」
美藍は、真剣な表情で首を振った。
「お父さんの卒論のおかげで、四国が、本州とかよりも、大陸からの血の混じりが多いっていうことが、当時のデータでも分かってたんだって。これ、私の研究にも、すごく役に立つから」
「そうか……。少しは、役に立ったか」
正則は、少し嬉しそうに、そう呟いた。
「うん! 本当にありがとう」
美藍がそう言うと、台所からみやこが顔を出した。
「あ、お母さん」
美藍は、思い出したように付け加えた。
「明日、藍染のワンピースも持っていくから」
「はいはい、忘れ物ないようにね」
みやこが、そう軽く返事をすると、リビングには、穏やかな夕暮れの空気が、静かに満ちていった。
その夜、携帯電話が鳴った。
プルルル……
「もしもし」
「ああ」
「二十日、二十一日だ」
「二日目に、山頂を目指す」
「ただ……。手荒な真似は、よしてくれ」
「ああ、それならいいが」
「分かった」
「では、山頂で」
短いやり取りだけで、通話は切れた。
窓の外には、夏の夜空が、静かに広がっていた。




