第46話:地図の上の線
その夜、美藍は自室の机に、大きな地図を広げていた。剣山周辺の等高線や、これまで訪れてきた神社の位置を、赤いペンで丁寧に書き込んでいく。
「一日目は……」
美藍は、地図の上を指でなぞりながら、独り言のように呟いた。
「磐境神明神社に、もう一度立ち寄ろう。それから、忌部神社」
磐境神明神社の由来には、「白人神社」という古名があり、白い鳩が飛来したという伝承が残っている、という記述を、美藍はノートに書き写した。
「白い鳩……。これも、何か意味があるのかな」
美藍は、少しの間考え込んだ後、ノートの余白に、その言葉を書き留めた。あとで、名方にも聞いてみようと思った。
続けて、忌部神社の場所を地図上で確認する。
「忌部神社は、磐境神明神社からそう遠くない場所にあるはず……。この二つを、一日目で回れば、無理のない行程になりそう」
美藍は、赤いペンで、二つの神社を結ぶルートに丸をつけた。
「そして、二日目」
美藍は、地図の中心――剣山の山頂へと、視線を移した。
「大剣神社から、そのまま山頂を目指す。ここが、今回の旅の、本当のゴール」
大剣神社の御塔石、そして山頂に伝わる宝蔵石の伝説――これまで集めてきた情報が、頭の中で、次々と繋がっていく。
そこへ、部屋の扉が軽くノックされた。
「美藍、入っていいか」
正則の声だった。
「うん、いいよ」
扉を開けて入ってきた正則は、机の上に広げられた大きな地図を見て、興味深そうに近づいてきた。
「これが、剣山のルートか」
「うん。せっかくだから、お父さんにも説明しておこうかな」
美藍は、椅子をずらして、正則が覗き込めるようにスペースを空けた。
「まず、一日目。ここ、磐境神明神社に、もう一度立ち寄るの」
美藍は、地図上の一点を指し示した。
「前にも来たことある場所なんだけど、旧約聖書の"幕屋"っていう、移動式の神殿と、寸法がぴったり一致するっていう、変わった構造の神社なんだ」
「そんな場所があるのか」
正則は、感心したように地図を覗き込んだ。
「それで、次に、忌部神社に行く。磐境神明神社から、そんなに遠くない場所にあるみたいだから、一日目でまとめて回れると思う」
「忌部神社……。教授と同じ名前だな」
正則が、ふと呟いた。
「うん。それも含めて、色々気になることが多くて」
美藍は、少し言葉を濁しながら、次のページへと視線を移した。
「そして、二日目。ここが、今回の旅の、本当のゴール。大剣神社から、そのまま山頂を目指すの」
「山頂まで……。結構な距離だな」
「うん、だから、二日目はほとんど、その移動と登山に充てるつもり。無理はしないようにする」
正則は、地図に描かれたルート全体を、しばらくの間、黙って眺めていた。
「なるほどな。……よく考えられてる」
「でしょう? 名方さんにも、後で確認してもらうつもり」
「ああ、それがいい」
正則は、そう言うと、静かに頷いた。その表情には、これまでにない、何か複雑な色が浮かんでいるように、美藍には見えた。
「実はな、美藍」
正則は、地図を見つめたまま、静かに切り出した。
「お父さんも、学生の頃……。ゼミで、これと似たようなルートを、散策したことがあるんだ」
「え……。お父さんが?」
美藍は、思わず顔を上げた。
「うん。磐境神明神社から、忌部神社、そして剣山へ――ちょうど、お前が今、辿ろうとしているのと、近いルートだったと思う」
「そうだったんだ……。知らなかった」
「残念ながら、その頃の父さんは、最後まで、辿り着けなかったんだがな」
正則は、少し自嘲するように、小さく笑った。
「色々、事情があってな。結局、答えを見つけられないまま、卒業してしまった」
「えっ……。お父さんも、何か調べてたの?」
美藍は、驚いたように尋ねた。
「ああ。当時のゼミ研究でな」
「何を、研究してたの?」
「今でも、卒論が残ってるはずだが……」
正則は、少し懐かしそうに、視線を宙に泳がせた。
「『四国地方における大陸ゲノム比率』っていう、テーマだった」
「大陸ゲノム比率……?」
美藍は、思わずその言葉を繰り返した。
「つまり、四国の人々の遺伝子の中に、どのくらい大陸系――渡来系の血が混ざっているか、っていうのを、当時の限られたデータで、調べようとしてたんだ」
「そんな研究、してたんだ……」
美藍は、その言葉に、これまで感じたことのない、父の別の一面を垣間見た気がした。
正則は、地図に描かれたルートを、もう一度、じっと見つめた。
「今回の登山で、お前が、何か見つけられるといいな」
その言葉には、単なる親としての激励以上の、何か切実な願いが込められているように、美藍には感じられた。
「うん……。頑張ってくる」
美藍は、少し戸惑いながらも、力強く頷いた。
「お父さん?」
「いや、何でもない。……気をつけて行くんだぞ」
「うん、分かってる」
正則は、それだけ言うと、静かに部屋を後にした。
美藍は、地図に描いたルートを、改めて見つめ直した。磐境神明神社から忌部神社、そして大剣神社から山頂へと続く、一本の線。
「政治は奈良、魂は阿波、ここは磐の境……」
いつか、磐境神明神社の帰り道で、ノートの片隅に書き殴った、あの言葉を、美藍は再び口にした。この線の先に、一体何が待っているのか――期待と、そして、言葉にできない緊張が、胸の奥で静かに渦を巻いていた。
美藍は、地図の中心――剣山の山頂を、そっと指先でなぞった。
「この頂きに……。卑弥呼も、立っていたのだろうか」
そう呟くと、遠い古代の女王が、この同じ場所に立っていたかもしれない光景が、ふと頭に浮かんだ。二千年近い時を超えて、自分が今、同じ場所を目指している――そう思うと、これまでにない、不思議な感慨が込み上げてきた。
机に頬杖をつきながら、美藍は、剣山の頂に立つ卑弥呼の姿を、ぼんやりと思い描いた。白い衣をまとい、藍色の空を背にして、遠く畿内の方角を見つめる女王――その姿が、まるで実際に見てきたことのように、頭の中に鮮やかに浮かび上がってくる。
(もし、本当にここにアークがあったとしたら……。卑弥呼は、どんな気持ちで、この山を見上げていたんだろう)
そんなことを考えながら、地図を見つめ続けているうちに、いつの間にか、美藍の瞼は重くなっていった。今日一日の疲れと、これまでの調査の興奮とが、静かに混ざり合っていく。
うとうとと、意識が薄れていく中、美藍は、夢とも現実ともつかない、不思議な感覚に包まれていた。
(よくぞ、ここまで)
ふと、そんな声が、どこからともなく聞こえたような気がした。
(え……?)
美藍は、はっとして顔を上げた。だが、部屋の中には、誰もいない。ただ、机の上の地図と、ノートが、静かにそこにあるだけだった。
「……気のせい、か」
美藍は、小さく呟くと、頬をぺちぺちと軽く叩いた。
「こんなところで寝ちゃったら、風邪引くよね」
美藍は、地図を丁寧に折りたたむと、リュックの中にしまい込んだ。窓の外には、夏の夜空が、静かに広がっていた。
「よし、明後日から、いよいよだ」
美藍は、小さく自分に言い聞かせるように呟くと、旅の準備を進め始めた。




