第45話:動くか
美藍が家に帰り着くと、リビングには正則とみやこの姿があった。
「ただいまー」
「おかえり」
美藍は鞄を置くと、早速切り出した。
「お父さん、お母さん。剣山に登るために、美馬のおばあちゃんの家に、泊めてもらうことになったの」
「剣山に? いつだ」
正則が尋ねると、美藍は指を折りながら答えた。
「八月二十日と二十一日、一泊二日の予定。名方さんと里奈も一緒に、三人で」
「三人で、か」
正則は、少し安堵したように頷いた。
「一人じゃないなら、少し安心だな」
「おばあちゃんには、もう連絡したの?」
みやこが尋ねると、美藍は頷いた。
「うん、さっき電話しておいた。三人で泊めてもらうこと、ちゃんと伝えて、快く了承してもらったよ」
「そう、それならよかったわ」
みやこは、少し安心したように、胸を撫で下ろした。
「この暑い時期に、大丈夫なの? 剣山って、結構本格的な登山になるんでしょう」
「うん、装備はちゃんと準備するし、名方さんも一緒だから大丈夫だよ」
「それでも、心配なものは心配よ」
みやこがそう言うと、正則も静かに頷いた。
「気をつけて行くんだぞ。山は、天候が急変することもあるからな」
「うん、分かってる」
「それにしても」
正則は、少し考えるように、視線を落とした。
「三人で泊まりに行くとなると、母さんも、色々気を遣うだろうな。……俺からも、一言、連絡しておこうか」
「あ、うん。お願いしてもいい?」
「ああ」
正則はそう言うと、スマホを取り出し、祖母の番号を呼び出した。
「もしもし、母さん? 俺だけど」
『あら、正則。どうしたの、急に』
「美藍から聞いたと思うが……。二十日と二十一日、三人で泊めてもらうことになったみたいで。改めて、よろしく頼むよ」
『ああ、その話ね。もちろん構わないわよ。賑やかになりそうで、楽しみにしてるの』
祖母の明るい声が、電話越しにも聞こえてくる。正則は、その返事にほっとしたように頷いた。
「そう言ってもらえると助かる。急な話で悪いな」
『何言ってるの、水臭い。いつでも大歓迎よ』
「ああ、ありがとう。……近いうちに、俺も、そっちに顔を出そうと思ってる」
『あら、正則も来てくれるの? それは嬉しいわ』
「まだ確定じゃないんだが……。また連絡する」
正則は、そう言って電話を切ると、美藍の方を向いた。
「おばあちゃん、楽しみにしてるってさ」
「よかった!」
美藍は、嬉しそうに笑った。
翌日、美藍は大学へと向かった。夏休みで人影もまばらなキャンパスを抜け、文学部棟三階へと続く階段を上る。
「日本古代史研究室」の重厚な扉の前で、美藍は一度深く息を吸った。これまでの数週間で経験してきたこと――教授の隠蔽、忌部一族の秘密、自分自身の血筋の可能性――それらすべてを胸に、扉を二回叩いた。
「入れ」
いつもと変わらない、冷たく乾いた声が返ってきた。美藍は静かに扉を開け、一礼した。
「失礼します」
「布都か。何の用だ」
教授は、机に広げた書類から顔も上げずに尋ねた。窓の外からは、夏の蝉の声が、かすかに聞こえてくる。
「教授に、ご報告があって来ました」
美藍は、机の前に立つと、はっきりとした声で切り出した。
「これまで、色々調べてきたことを、一度きちんとお伝えしておきたくて」
美藍は、鞄からノートを取り出しながら、続けた。
「八倉比売神社、磐境神明神社、船盡比賣神社。それぞれの場所で、四国説を裏付ける手がかりを、いくつも見つけました。神代文字、地名の一致、それに、阿曇氏という海洋民族の存在――」
「それで?」
教授は、依然として書類から目を離さないまま、短く遮った。だが、そのペンを持つ手は、ほんのわずかに止まっていた。
美藍は、その一瞬の変化を見逃さないまま、静かに息を吸った。
「それで……。八月二十日に、剣山へ行こうと思います」
美藍は、真っ直ぐに教授の目を見て、そう告げた。
「これまで集めてきた手がかりの、最後の答え合わせをしに」
研究室に、しばらくの間、沈黙が流れた。壁掛け時計の針が刻む音だけが、静かに響いている。教授は、ゆっくりとペンを置くと、初めて、美藍の顔を正面から見つめた。
「……そうか」
その声には、これまでの取材で見せてきたような、頭ごなしの否定は含まれていなかった。ただ、静かな、何かを噛み締めるような響きだけが、そこにあった。
「気をつけて行くといい」
「はい」
美藍は、意外なほどあっさりとした反応に、思わず戸惑った。もっと強く止められる、あるいは、また鋭い言葉で切り捨てられる――そんな覚悟をしていただけに、この静かな返答は、かえって美藍の胸に、重く残った。
「失礼します」
美藍は深く頭を下げると、研究室を後にした。廊下を歩きながら、美藍はふと振り返り、閉じられた扉を見つめた。
(教授……。本当に、それだけでいいんですか)
そんな思いを抱えながらも、美藍は前を向き、キャンパスを後にした。
その夜、ある部屋の中で、一本の電話がかけられていた。カーテンの隙間から、夏の月明かりが、部屋の中に細く差し込んでいる。
「もしもし、私だ」
『……ああ、ご苦労だった』
電話の向こうから聞こえる声は、落ち着いていながらも、どこか有無を言わせない重みを持っていた。
「報告することがある。八月二十日、剣山に向かうそうだ」
『……とうとう、動くか』
その一言には、長年待ち続けていたものが、ようやく形になろうとしている、そんな緊張感が滲んでいた。
『裏切るはずないだろ、なんて、白々しい台詞は聞き飽きたんでな。だが、昨日聞いた話は、確かに悪くなかった』
受話器を握る手に、思わず力がこもった。
「裏切るつもりなんて、最初からない。私は、ただ――」
『分かってる、分かってる。……あなたが、あの一族に、何か特別な思い入れがあることも、こっちは承知してる』
「……」
その一言に、しばらくの沈黙が挟まれた。
『だが、それと、あんたたちへの忠誠は、別の話だ。分かっているな』
「ああ。……ただ、核心には、まだ時間がかかるだろう」
『それは、承知の上だ』
「それと、もう一つ。……求めているものと、違う形になるかもしれん」
『……どういう意味だ』
電話の相手の声に、初めて、わずかな緊張が滲んだ。
「あの子が調べた資料に、気になる記述があった。一箇所にまとまってはおらず、分散して保管されている、という考え方だ。もしそれが本当なら、これまで探し続けてきた前提自体が、崩れることになる」
電話の向こうで、しばらくの沈黙が流れた。窓の外の月明かりが、部屋の中を、ゆっくりと動いていく。
『……分散、か』
「ああ」
『それも、含めて、報告を待つ。引き続き、頼んだぞ』
「ああ」
短くそう答えると、それ以上何も語らず、静かに通話は切れた。
窓の外には、夏の夜空が、静かに広がっていた。しばらくの間、暗い天井を見上げたまま、動かない者の姿があった。
(あの子を、これ以上、深く巻き込みたくない……。だが、もう、後には引けないところまで来てしまった)
長い沈黙の後、静かに目を閉じる気配だけが、その部屋に残っていた。




