第44話:マドラスにて
翌日、三人は約束通り、船盡比賣神社へと足を運んだ。
「昨日も、この辺り来たっちゃね」
車の窓から外を眺めながら、里奈がふと呟いた。
「うん、天石門別八倉比売神社も、この近くだったもんね」
美藍も頷きながら、地図アプリを覗き込んだ。
「実は、それも興味深いなって思ってて。天石門別八倉比売神社の周辺に、今から行く船盡比賣神社があるっていうこと自体、何か意味があるんじゃないかって」
「意味、って?」
「うーん、まだ漠然としてるんだけど……。卑弥呼の墓があるとされる場所のすぐ近くに、海の民――阿曇氏に関係する神社があるって、偶然にしては、出来過ぎてる気がして」
美藍は、そう言いながら、ノートに簡単なメモを書き加えた。
「もしかしたら、この辺り一帯が、政治(卑弥呼)と、それを支えた技術・航海(阿曇氏)の、両方が集まってた拠点だったんじゃないかな」
「なるほどね……」
里奈も、興味深そうに頷いた。
昨日訪れた天石門別八倉比売神社からもそう遠くない、旧名方郡の一角、鮎喰川沿いに位置するこの神社は、これまで訪れてきた聖地とはまた違う、静かな佇まいを見せていた。近くには、対になる「船盡神社」もあるという。
この旧名方郡一帯は、阿波忌部氏の本拠地の一つであったと同時に、海洋民族「阿曇氏」の拠点でもあったとされる場所だった。忌部氏と阿曇氏――陸の祭祀を司る一族と、海の航海を担う一族が、すぐ隣り合って、この地に根を張っていたことになる。
境内に足を踏み入れると、社殿の脇に、古びた二本の幟が、静かに掲げられているのが目に入った。近づいてよく見ると、そこに記されているのは、見慣れた日本語の文字とは、明らかに異なる形をした記号だった。
「これが……神代文字」
美藍は、食い入るようにその幟を見つめた。
「うわ……。本当に、見たことない形の文字やね」
里奈も、隣で興味深そうに幟を見上げた。
名方は、その文字を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
「……これと、同じだ」
「え?」
美藍が、思わず名方の顔を見た。
「同じ、って、何がですか?」
「……俺が見た、三木家文書に書かれていた記号と、同じだ」
名方は、幟から目を離さないまま、そう呟いた。
「本当ですか!?」
美藍は、興奮した様子で、幟にさらに顔を近づけた。
「じゃあ、あの文書に書かれてた"暗号"って、この神代文字だったんですね!」
「ああ……。おそらく、そうだろう」
名方は、静かに頷いた。その表情には、これまでにない、複雑な色が浮かんでいた。
里奈も、驚いたように二人を見比べた。
「じゃあ、この神社に、その文字を読める人がおったら……。三木家文書の中身も、分かるかもしれんとよ」
「宮司さんがいれば、話を聞けるかもしれんな。……ちょっと、社務所を覗いてみるか」
三人は社務所へと向かったが、あいにく、その日は不在のようだった。
「いないみたいですね……」
美藍は、少し肩を落としながら、それでも諦めきれない様子で、もう一度幟を見つめた。
境内をさらに奥へと進むと、鮎喰川に面した一角に、古い石組みの跡が残っているのが見えた。
「これ、もしかして……」
美藍は、その石組みに近づき、しゃがみ込んだ。
「昔の船着き場の跡、じゃないですか?」
「船着き場……」
名方も、興味深そうにその跡を見つめた。
「案内板にも、そう書いてありますね。古代、この辺りまで船が行き来してたって」
美藍は、その説明書きを読みながら、ふと何かに気づいたように、目を見開いた。
「……そうか」
「どうしたと?」
里奈が尋ねると、美藍はノートを取り出し、興奮した様子で、頭の中の考えを一気に言葉にし始めた。
「邪馬台国は、四国で生まれた。でも、その本当の秘密――アークを、政治的な争いから守るために、阿曇氏の船を使って、表向きの政治機能だけを、畿内へ運んだんじゃないでしょうか!」
「表向きの機能だけを……?」
「うん! だから、奈良には『巨大な見せかけ』としての都(纒向)が作られて、政治の中心を担った。でも、本当に守るべき"魂"――アークと、それを祀る一族(忌部氏)だけは、静かに、四国のこの地に残された」
美藍の言葉は、これまでのどの瞬間よりも、確信に満ちた響きを持っていた。
「阿曇氏は、その両方――畿内への"表向きの東遷"と、阿波を守り続けるための"補給・連絡"の両方を担う、いわば、二つの世界を繋ぐ役目だったんじゃないかって、思うんです」
美藍は、船着き場の跡と、幟の神代文字を、交互に指し示した。
「それに、考えてみれば、大海を渡ってこの地にたどり着いた渡来の民が、いたとするなら……。その航海技術そのものを、直接この地の人々に伝えた一族が、いたはずですよね」
「阿曇氏が、その担い手だった、ってことか」
名方が、静かに言葉を継いだ。
「はい。もしかしたら、阿曇氏自体が、ユダヤの民から直接、航海術を学んだ――あるいは、その血を受け継いだ末裔だったんじゃないかって。じゃないと、あんな遠い海を渡ってくる技術が、突然この国に現れるはずないですから」
「この船着き場から、政治的な物資や人材を畿内へ送り出す一方で、この神代文字の記録のように、決して公にはできない、本当の秘密――アークの守り方や、忌部一族の使命だけを、密かに書き記して、伝え続けてきたんじゃないでしょうか」
しばらくの間、誰も何も言わなかった。夏の日差しが、鮎喰川の水面に、きらきらと反射していた。
「……なるほどな」
名方が、ようやく口を開いた。その声は、いつもより、わずかに硬い響きを持っていた。
美藍は、名方の様子には気づかず、興奮した面持ちで、ノートに今の考えを書き留め続けていた。だが、その隣で、名方の目線は、一瞬だけ、鋭く宙を泳いでいた。握りしめた拳には、知らず知らずのうちに、強い力がこもっている。
「名方さん?」
里奈が、ふと名方の様子に気づき、声をかけた。
「……いや、何でもない」
名方は、すぐに表情を戻すと、静かに頷いた。
「面白い考えだ、美藍ちゃん。……阿曇氏についても、もう少し調べてみる必要がありそうだな」
「はい! これ、絶対に大きな手がかりになる気がします」
美藍は、嬉しそうにノートを閉じると、改めて船着き場の跡を見つめた。遠い昔、この場所から旅立っていった人々の記憶が、静かに、今も刻まれているような気がした。
境内の幟が、夏の風に、静かに揺れていた。
「よし、そろそろ腹も減ったな」
名方が、そう言って腕時計を確認した。
「少し距離はあるが、徳島市内まで戻るか。老舗の、良い店があるんだ」
「わざわざ戻るんですか?」
美藍が尋ねると、名方は頷いた。
「ああ。それに、ちょうどいい、少し落ち着いて話せる場所でもある。……今日聞いた話も、色々整理しておきたいしな」
三人は車に乗り込み、徳島市南昭和町にある「マドラス Le シャンゼリゼ」へと向かった。
「わあ、素敵な内装……」
店に入るなり、里奈が思わず声を上げた。ロココ調の凝った装飾が施された店内は、昭和の趣を残しながらも、どこか気品のある雰囲気を漂わせている。
「ここ、カレーが有名な店でな。四十年以上、地元の人間に愛されてる老舗だ」
名方がそう説明しながら、案内された席に腰を下ろした。
「俺が駆け出しの記者だった頃、よく先輩に連れてきてもらったもんだ。当時から、味は変わってないな。……何回か、この店の記事も書いたぞ」
「え、そうなんですか?」
美藍が興味深そうに尋ねると、名方は壁の一角を指し示した。そこには、色褪せた新聞の切り抜きが、額に入れられて飾られていた。
「ほら、あそこだ」
「本当だ! 名方さんの記事だ」
美藍と里奈は、揃ってその切り抜きを覗き込んだ。古い紙面には、若い頃の名方の名前とともに、店の紹介記事が印刷されている。
「うわぁ、こんな昔から、名方さん、記者やってたんですね」
「馬鹿にするなよ、これでもベテランのつもりだぞ」
名方は苦笑しながら、メニューを手に取った。
「さて、何にするか。ここは、カレーが有名なんだ」
名方が自信満々にそう言うと、美藍はメニューをぱらぱらとめくりながら、あっさりと答えた。
「あ、私、オムライスにします」
「え……。カレーが有名だって、今言っただろう」
「聞きましたけど、オムライスの気分なんです」
里奈も、涼しい顔でメニューを指差した。
「うちは、ミートソースにしようかな」
「里奈ちゃんまで……」
名方は、がっくりと肩を落とした。
「一応、この店の看板メニューとして、紹介したつもりだったんだが」
「せっかく美味しそうなオムライスがあるんですから、これでも仕方ないですよ」
美藍が悪びれずに答えると、名方は諦めたようにため息をついた。
「……くそっ。じゃあ、俺だけでも、カレーにするか」
「あれ、名方さん、意地でも頼むんですね」
「こっちの顔も立ててくれ」
名方がぼやくと、美藍と里奈は、顔を見合わせてくすくすと笑った。
店内に案内され、しばらく席で待っていると、後ろの席に、スーツ姿の男性が三人、静かに腰を下ろした。仕事帰りの打ち合わせらしく、時折低い声で話し込んでいる。
美藍たちは、それぞれ注文した料理を食べながら、今日の発見について、楽しく語り合っていた。
「阿曇氏の話、本当にすごい発見やったね」
里奈が、興奮気味に言った。
「うん! 明日以降、もっと詳しく調べてみたい」
「それにしても、船着き場の跡まで見つかるとは、正直驚いたな」
名方も、満足げに頷いた後、ふと思い出したように、やや声を張って言った。
「しかし、お前、そこまで色々調べ上げてるのに……。それでも、教授には突き返されたのか」
「はい……」
美藍は、少し肩を落としながら答えた。
「エビデンスが、はっきりしないから、って言われて。地名の一致とか、音の類似とか、私が集めてきたものは、教授からすれば、全部『こじつけ』の域を出ないみたいで」
「まあ、確かに、学術的な視点から見れば、そう言われても仕方ない部分もあるよな」
名方が、そう言いながらコーヒーを一口飲んだ。その声は、いつもより、心なしか大きかった。里奈は、それを単に、名方が今日の発見に興奮しているせいだと思い、特に気に留めなかった。
「うん、それは分かってるんです。だから、余計に悔しくて」
美藍は、少し苦い表情を浮かべながら、水の入ったグラスに視線を落とした。
「教授が求めてるような、動かぬ証拠――それが見つかれば、絶対に見返せるはずなのに」
名方は、しばらく黙って美藍の横顔を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「証拠がすべてとは、俺は思わんがな」
「え?」
美藍が顔を上げると、名方はコーヒーカップを静かに置いた。
「歴史を知るっていうのは、結局――誰かの想いを知ることだと、俺は思ってる。証拠や物証は、その想いに辿り着くための、一つの手段に過ぎん。お前が集めてきたものは、こじつけなんかじゃなく、その想いを追いかけようとした軌跡だ」
美藍は、その言葉を、しばらく黙って噛みしめていた。
「……名方さん」
「まあ、記者としての、ただの持論だがな」
名方は、少し照れたように、コーヒーを一口飲んだ。
里奈が、そんな美藍を励ますように、明るく声をかけた。
「大丈夫、これだけ色んな点が繋がってきとるんやし。きっと、いつか、教授も認めざるを得ない証拠が見つかるとよ」
「うん……。そうだといいな」
美藍は、里奈の言葉に、少しだけ表情を和らげながら、ふと、何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そういえば、また新しいこと気づいたんですけど」
「まだあるのか」
名方が、少し呆れたように、しかしどこか楽しそうに笑った。
「卑弥呼とか、あの時代の人物の髪型って、埴輪とかによく描かれてる、みずらっていう髪型があるじゃないですか。あの、耳の横で束ねた髪型」
「ああ、あるな」
「あれ、ユダヤ教徒の男性が伸ばす、『ペイオト』っていう、もみあげの巻き毛に、似てるって説があるらしいんです」
「ペイオト……」
里奈が、興味深そうに繰り返した。
「うん! もちろん、これも直接的な証拠にはならないですけど……。でも、髪型っていう、こんな身近な文化にまで、ユダヤの影響が残ってるとしたら、それこそ、根深い繋がりの証拠になるんじゃないかって」
名方は、そのネタを聞きながら、静かに頷いた。
「なるほどな。……それも、覚えておく」
「あ、それと、もう一つ」
美藍は、水を一口飲むと、さらに続けた。
「『阿曇』っていう名前自体も、気になってて」
「名前自体が、どうしたと?」
里奈が尋ねると、美藍は身を乗り出した。
「ヘブライ語で、『Oz』とか『Az』っていう言葉があって、『強い、猛烈な』みたいな意味なんです。それに、『Am』――『民』っていう言葉を組み合わせると、『Az-Am』、つまり『強勇なる民』っていう言葉になる」
「それが、訛って、『アヅミ』になった、ってことか」
名方が、静かに言葉を継いだ。
「はい! 荒波を越えて、この国まで辿り着いた海洋民族にぴったりの意味だと思いませんか? もしくは、ヘブライ語で『巨大な、強大な』を意味する『アツム』っていう言葉から来てるのかもしれません。巨大な船団を率いた一族、っていう意味で」
「面白い響きの一致だな」
名方は、そう言いながら、コーヒーを一口飲んだ。
「でも、名前一つで、断定はできないですよね。分かってます」
美藍は、少し照れくさそうに笑いながら、自分を戒めるように付け加えた。
「うん、それでいい。着眼点としては、悪くないと思うぞ」
食事を終え、美藍たちは席を立った。会計を済ませようと振り返った瞬間、美藍はふと、後ろの席の方に目をやった。
(あれ……)
その景色に、なぜか小さな既視感が過った。特に理由も分からないまま、美藍はしばらくその席を見つめていたが、すぐに気を取り直し、名方たちの後を追った。
「どうしたと?」
里奈が振り返って尋ねると、美藍は首を傾げた。
「ううん、何でもない」
帰りの車の中、美藍はふと、先ほどの違和感を思い出したように、口を開いた。
「そういえば、さっきレストランの後ろの席にいた人たち……。どこかで見たような気がしたんですけど」
「見たような?」
名方が、前を見たまま尋ねた。
「うーん……。気のせいかもしれません。最近、考え事が多すぎて、色々混同してるのかも」
美藍は、そう言いながら、軽く頭を振った。
「疲れてるんだろう。今日は、色々収穫があった分、頭も使っただろうしな」
「そうかもしれません」
美藍は、それ以上深く考えることなく、窓の外に視線を移した。夏の夕暮れが、車窓の景色を、静かに茜色に染めていた。
しばらくの沈黙の後、美藍はふと、姿勢を正して切り出した。
「あの、名方さん、里奈。そろそろ、剣山に行こうと思うんです」
「おお、ついに、って感じやね」
里奈が、身を乗り出した。
「はい。八月二十日と二十一日、一泊二日で。宿泊は、美馬のおばあちゃんの家を、拠点にさせてもらおうと思ってて」
「おばあちゃんの家か。それはいい考えだな」
名方が、静かに頷いた。
「剣山への登山口にも近いし、何より、気心の知れた場所の方が、色々動きやすい」
「うん! おばあちゃんたちにも、もう連絡してみようと思います」
「うちも、その日程で大丈夫よ」
里奈が快く頷くと、美藍は嬉しそうに笑った。
「よろしくお願いします。……いよいよですね」
「ああ」
名方は、そう短く答えると、静かに前を見つめ、車を走らせ続けた。夏の夕暮れが、三人を乗せた車を、静かに包み込んでいた。




