第43話:電話の相手
その頃、徳島市内のある一室で、電話が鳴っていた。
「もしもし、私だ」
低い声が、静かに切り出した。
『……はい。何か動きが?』
「あの子は、一族の血を引く者として、着実に真実へ近づいている」
『思っていたより、早いですね』
「ああ。だが、まだ焦る段階じゃない。しばらく、泳がせておく」
『承知しました。……それにしても、あなたがそこまで、あの院生の動向を気にかけるとは思いませんでした』
「……あれの熱意は、本物だ。だからこそ、目を離せん」
電話の向こうの声は、それ以上多くを語らず、短いやり取りだけで通話は切れた。窓の外には、夏の夕暮れが、静かに広がっていた。
美藍が家に帰り着くと、リビングから正則の声が聞こえてきた。
「ただいまー」
「お、おかえり」
正則がソファから顔を上げると、美藍は嬉しそうに、藍染めのワンピースが入った袋を掲げて見せた。
「お母さん! 見て見て、藍染工房で買ったの!」
「あら、素敵じゃない」
台所からみやこが顔を出し、袋の中身を覗き込んだ。
「藍染めって、こんなに深い色になるのね。似合いそう」
「でしょう!? 今度、着ていくところ探さなきゃ」
美藍は嬉しそうに、ワンピースを体に当てながら、リビングの鏡の前でくるりと回ってみせた。
「今日は、どこ行ってたんだ」
正則がソファから尋ねると、美藍は椅子に腰を下ろしながら、今日一日の出来事を話し始めた。
「まず、八倉比売神社に行ったの。里奈も一緒に。それで、五角形の祭壇の周りを、実際に歩測してみたんだけど……。魏志倭人伝の『径百余歩』っていう記述と、驚くほど近い数字になったんだよね」
「歩測で、そこまで細かく分かるものなのか」
「あくまで目安だけどね。それで、奈良の箸墓古墳のサイズとは全然合わなくて。もしかしたら、箸墓古墳は本当の卑弥呼の墓じゃなくて、政治的な見せかけだったんじゃないかって、思ってるの」
正則は、静かに頷きながら、娘の話に耳を傾けていた。
「その後、藍染工房にも寄って、このワンピースを買ったんだ。里奈は、絞り染めのスカーフを買ってた」
「なるほどな」
「それで、明日なんだけど」
美藍は、少し身を乗り出して続けた。
「船盡比賣神社っていう、鮎喰川沿いにある神社に行く予定なの。阿曇氏っていう、海の民に関係する神社らしくて、神代文字が書かれた幟が、今も残ってるんだって」
「阿曇氏……。海の民、か」
正則は、その名前を、口の中で小さく繰り返した。
「うん。もし本当にユダヤの民が海を渡ってきたんだとしたら、その航海を実際に担った一族がいたはずでしょ? それが、阿曇氏だったんじゃないかって、今、名方さんと話してるの」
美藍は、興奮気味に続けた。
「もしかしたら、その阿曇氏の船を使って、政治的な機能だけを畿内へ運んで、本当に守るべき秘密は、この阿波の地に残したんじゃないかって……。そんな仮説も、今、私の中で組み立ててるんだよね」
正則は、しばらくの間、黙って娘の話を聞いていた。その表情には、これまでにない、複雑な色が浮かんでいた。
「……面白い考えだな」
「でしょう!? 明日、実際に行ってみて、もっと詳しく調べてくるつもり」
「そうか」
正則は、それだけ答えると、静かに視線を窓の外へと向けた。
「そういえば、お父さん」
美藍は、ワンピースを丁寧に畳みながら、ふと尋ねた。
「いつまで、こっちにいられるの?」
「ああ、あと十日くらいかな。長めに休みをもらってるから」
正則がそう答えると、美藍は少し考えるように、視線を宙に泳がせた。
「じゃあ、今度また、美馬のおばあちゃんの家に、一緒に行こうと思ってるんだけど。お父さんも、たまには顔出さない?」
「美馬に?」
正則の表情が、一瞬だけ、わずかに変わった。
「うん。前に、名方さんと里奈と三人で行った時、すごく喜んでくれて。お父さんも一緒だったら、もっと喜ぶと思う」
「……そうだな」
正則は、少し考え込むように、視線を落とした。
「行けたら、行こうかな」
「え、来てくれないの?」
美藍が少し不満げに尋ねると、正則は苦笑いを浮かべた。
「いや、そういうわけじゃないんだが……。仕事の都合とか、色々あってな。確約はできないが、行けるように調整はしてみる」
「ふーん……。まあ、いいけど」
美藍は少し腑に落ちない様子ながらも、それ以上は追及せず、話題を切り替えた。
「じゃあ、行けたら一緒に行こうね!」
「ああ、そうだな」
正則は、そう答えながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。
みやこは、そんな二人のやり取りを、少し離れたところから、静かに見守っていた。




