第42話:エラヤッチャ
八倉比売神社を後にした三人は、その足で、吉野川沿いの藍染工房へと向かった。
「善造さん、こんにちは! お久しぶりです!」
美藍が声をかけると、工房の奥から、日に焼けた顔の善造が、ゆっくりと姿を現した。
「おお、美藍嬢ちゃんか。今日はまた賑やかじゃな」
「今日は、同期の里奈も連れてきました。善造さんの藍染め、どうしても見せたくて」
「初めまして、佐伯里奈です。熊本から来とります」
里奈が丁寧に頭を下げると、善造は目を細めて笑った。
「そりゃまた遠くから。まあ、ゆっくり見ていきんさい」
工房の中に入ると、独特の藍の匂いが、里奈の鼻先をくすぐった。
「うわぁ……。この匂い、なんか落ち着くね」
「でしょう? 私も初めて来た時、同じこと思った」
美藍が懐かしそうに微笑むと、善造は甕の一つを撫でながら、静かに語り始めた。
「この藍染めもんはな、発酵させた蒅を、何度も何度も、糸や布に染み込ませて作るんじゃ。一回や二回じゃ、この深い色は出せん」
「時間をかけて、じっくり染めていくんですね」
里奈が興味深そうに、染め上がったばかりの布地に触れた。
「そういえば、善造さん」
美藍が、ふと思い出したように切り出した。
「里奈にも、あの唄、聞かせてあげてもらえませんか? 蒅を混ぜる時の、あの唄です」
「ああ、あれか」
善造は懐かしそうに頷くと、甕の前に腰を下ろした。
「唄……? どんな唄なんですか?」
里奈が興味津々に尋ねると、善造は大きな木の棒を手に取り、甕の中身をゆっくりとかき混ぜ始めた。
「まあ、聞いてみんさい」
やがて、善造の口から、低く掠れた声で、あの聞き慣れない旋律が漏れ始めた。
「ヤー……アー……、シャロー……メー……」
里奈は、その独特の抑揚に、思わず息を呑んだ。
「これ……。本当に、日本語じゃないみたいな響きやね」
「でしょう!? これが、ヘブライ語の『シャローム』――神への祈りの言葉に、驚くほど似てるんです」
美藍が興奮した様子で説明すると、善造は木の棒を動かす手を休めずに、静かに言った。
「わしも、意味は知らん。うちの親父も、そのまた親父も、意味も分からんまま、こうして歌い継いできただけじゃ」
里奈は、しばらくの間、その唄の響きに、じっと耳を澄ませていた。
「……なんか、不思議な感じ。意味は分からんのに、なんか、心の奥に届くような」
「その感覚、私も最初に聞いた時、同じこと思った」
美藍は、里奈の反応に、静かに頷いた。
里奈は、しばらくの間、何かを考え込むような表情を浮かべていたが、やがて、はっとしたように顔を上げた。
「ちょっと待って……。この『シャローム』の響き」
「どうしたと?」
「阿波おどりの掛け声にも、似たようなの、あったよね? 『ヤットサー』とか」
「うん、それも前に、名方さんから聞いた話で――」
「それだけやなくて」
里奈は、興奮を抑えきれない様子で、続けた。
「よく合いの手で入る、『エラヤッチャ』っていうのも……。もしかして、あれも、同じような由来があるんやない?」
美藍は、思わず目を見開いた。
「え、里奈、それ、どこで知ったの?」
「いや、知っとったわけやなくて、今、ふと思いついただけ。『エル・ヤッシャー』――『神よ、救いたまえ』みたいな響きに、聞こえん?」
美藍は、その言葉を、口の中で繰り返した。
「エル・ヤッシャー……。エラヤッチャ……」
「うん、確かに、音の並びが、似とる気がする!」
名方も、興味深そうに二人のやり取りに耳を傾けていた。
「里奈ちゃん、お前さんも、なかなか鋭いところあるじゃないか」
「あはは、たまたま思いついただけですよ」
里奈は照れくさそうに笑いながらも、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。
「うちも、やっと、あんたらの気持ちが、ちょっと分かってきた気がする」
美藍は、里奈のその言葉に、思わず微笑んだ。
「里奈も、これで、立派な同志だね」
「同志って、大袈裟な」
里奈は苦笑しながらも、まんざらでもなさそうに、頷いた。
唄が終わると、善造は木の棒を置き、少し遠い目をした。
「昔、似たようなことを言っとった学生さんが、一人おったわ。もう三十年近く前になるかの」
美藍と里奈は、思わず顔を見合わせた。あの、教授に繋がるかもしれない、三十年前の学生の話――それを、里奈もまた、初めてこの場で聞くことになった。
「里奈、これが、前に話してた、"いんべ"っていう学生の話」
「ああ……。これが、あの話の出どころなんやね」
里奈は、改めて実感を込めたように、工房の中を見渡した。
工房の一角には、すでに染め上がった品々を並べた棚があった。ワンピースや、スカーフ、ストールなど、様々な藍染め製品が、静かに来客を待っている。
「あ、これ……」
美藍は、棚に並んだワンピースの一枚に、思わず目を留めた。シンプルなデザインながら、深い藍の色が、美しいグラデーションを描いている。
「これ、素敵ですね……! 買っていってもいいですか?」
「ああ、それは構わんよ。ちょうど、嬢ちゃんくらいのサイズのもんもあったはずじゃ」
善造は、そう言いながら、いくつかサイズ違いのワンピースを取り出してくれた。
「本当は、一から仕立てたるのが一番なんじゃが……。今から作るとなると、さすがに二週間はかかるでな」
「いえ、大丈夫です! 今、丁度良いのが見つかったので」
美藍は、試着室を借りて袖を通すと、鏡の前で、思わず頬を緩めた。生地の柔らかさと、深い藍色が、不思議と自分によく似合っている気がした。
「里奈は?」
「うちも、何か欲しいなぁ」
里奈は、棚に並んだスカーフを見比べながら、目を輝かせた。
「あ、これ……。絞り柄、綺麗ですね」
里奈が手に取ったのは、白く抜けた雲のような模様が、藍色の生地に浮かび上がる、美しい絞り染めのスカーフだった。
「これ、いただきます!」
「おお、良い目をしとるな、嬢ちゃんも」
善造は満足げに頷きながら、二人の品を丁寧に包んでくれた。
「ありがとうございます、善造さん」
美藍は、包まれたワンピースを大切に抱えながら、工房を後にした。
外に出ると、名方が車のキーを取り出しながら言った。
「じゃあ、送っていくか」
「はい、お願いします」
車に乗り込むと、名方はふと、思い出したように尋ねた。
「明日、船盡比賣神社に行くとして……。何時に集合する?」
「うーん、午前十時くらいでどうですか?」
美藍が提案すると、里奈も頷いた。
「うちも、それくらいがちょうどよかとよ」
「よし、じゃあ、明日は、まず里奈ちゃんを迎えに行って、それから美藍ちゃんのとこに向かうか」
「はい、よろしくお願いします」
名方は、まず美藍の家へ、続いて里奈のアパートへと、それぞれ車で送り届けた。
「今日はありがとうございました、名方さん」
「気にするな。また明日な」
美藍は、藍染めのワンピースの入った袋を大切に抱えながら、家路についた。明日の船盡比賣神社への訪問に、静かな期待を膨らませながら。




